幕間第二十九巻
〜刹那・壱〜





「全く、こんな暑い最中、一日中歩き詰めじゃあ倒れるに決まってんだろ」

 はっきりしない意識の中で、そんな声を聞いた。

「俺の、不注意です」

「当たり前だ!」

「以後、気をつけます」






 やけに素直な薬売りさんの声に、笑ってしまう。
 けれど、力が入らなくて笑えない。




 私、どうしたんだろう…?




 そういえば、いつの間に横になったんだろう…?





 重い目蓋を持ち上げて、周りを確かめようとしたけど、目の上の何かがそれを遮っていて何も見えない。
 その何かを取ろうと手を動かす。
 ほんの少し腕を持ち上げればいいだけのはずなのに、それさえも重くて億劫になる。


「気が付きましたか」


 さっきよりも近くで薬売りさんの声がした。
 そして視界が明るくなる。

「…ん…」

 ぼんやりとした視界に、薬売りさんの鮮やかな着物が映る。
 私を覗き込む薬売りさんは、何処か沈んだような表情をしていた。

「あの…」
「まずは、水を」

 そう言うと、薬売りさんは私の頭を持ち上げて抱き起こしてくれた。
 そして枕元に置いてあった湯呑みを私の口に当てた。

「暑さで、倒れたんですよ」

 戸惑う私にそう説明して、もう一度湯呑みを当ててくる。
 一口飲むと、水が身体に滲みこんでいくのがはっきりと分かった。
 もっと飲みたい。
 緩慢に両手を動かして、薬売りさんから湯呑みを受け取ると、一気に飲み干してしまった。

「ほれ見ろ。一体どれだけ歩かせたんだか」

 さっき薬売りさんを叱っていた声。
 そっちに目を向けると、総髪の男の人が座っていた。

「暑さにやられたんだ、一晩は大人しく寝てるんだな」
「は…はい…」
「全く、こんな男について歩いてると、碌なことはねぇぞ」
「えっと…」

 私は助けを求めるように薬売りさんを見る。
 薬売りさんは甕から水を掬っていた。

「医者、ですよ。自称」
「自称じゃあねぇ。お前だって同じようなもんだろうが」

 四角い顔のその人は、薬売りさんを知っている風な喋り方をしている。

「俺は菱井良月。こいつとは、まだ江戸に居た頃に一度会ったことがあってな。そん時は連れなんぞ居なかったからなぁ、驚いたぜ」

 お酒でも飲み始めそうな感じがする。
 薬売りさんは、無視して二杯目を私に勧めてくる。
 私は素直に受け取って、また水を飲む。

「しかしまぁ、連合いの様子も気に掛けられねぇんじゃ、すぐに愛想付かされるから気をつけろよ」

 連合い…?

「余計なお世話、ですよ」
「どうだかな」

 薬売りさんは、この良月さんという人に、私をどう紹介したんだろう…?

さんも目が覚めた事だし、俺は行くぜ。此処にはいつまでいるつもりだ?」
「彼女の体調を見て、三、四日は…」
「それなら、そのうち俺に付き合えよ。…それから“彼女”だとか、他人行儀な呼び方はやめてやれ。じゃあな」

 良月さんは軽く手を振って部屋を出て行ってしまった。


 薬売りさんは、閉まった障子を眺めながら、珍しく大層な溜め息をついた。

「あの…、薬売りさん?」
「あぁ、すみませんね」
「あの人は」
「言った通り、ですよ。三年ほど前、だったか、江戸で…」
「モノノ怪ですか?」
「ええ」
「じゃあ、あの人は薬売りさんが何をしてるのかも」
「ええ」
「そうですか…」
「どうか、しましたか」
「いいえ」

 三年前も、薬売りさんはモノノ怪退治をしていたのかと、そう思っただけ。
 あの人は、三年前の薬売りさんを知っているのかと、思っただけ。

「あの、良月さんには、私のことを何と説明したんですか…?」
「何、とは」
「だって、連合いって…」
「俺は助手だと、言っただけ、ですがね」
「助手…」
「あいつは、良いように解釈するところが、あるんですよ」
「はぁ」
「それより」
「…え?」
「大丈夫、ですか」

 そう言って薬売りさんは手を伸ばしてきた。
 私の、頬に。

「だ、大丈夫です!」

 何をしてくれているんですか、この人は!?
 慌ててその手から逃れようとしても、身体がだるくて言うことを聞いてくれない。

「顔色も、よくなって、来ましたね」

 安心したように目を細めて、こっちをじっと見てくる。
 それは、その手のせいじゃないんですか?

「あの…く、薬売りさん…」
「何ですか」
「手を…」
「あぁ、すみませんね」

 何を気にするでもなく、薬売りさんはやんわりと手を離した。

 たまに疑問に思う。
 この人は何を思ってこんなことをするのか。

「薬売りさん」
「何、ですか」
「私は、助手ですよね」
「さっき、言ったでしょう」
「ですよね」
「しかし…」
「…?」
「“ただの助手”じゃあ、ないですがね」

 薬売りさんはいつものように口角を上げて笑う。
 これは絶対に面白がってる。
 妙な事を言って、私が困るところを見て楽しんでる顔だ。

 その科白に、あからさまに不満の表情を見せてやった。

「何ですか、その顔は」
「地顔です」
「そうですかね」
「そうなんです」
「何か、言いたいことがあるんで」

 私は、ちらりと薬売りさんを見てからすぐに目を逸らした。

「…少し、休ませてください」

 そう言って、薬売りさんに背を向けて布団を被った。




 どうしてそうやって、期待してしまうような事をするの。

 どうして、そうやって…




 働かない頭の中で、そんな事ばかりがぐるぐると渦巻いた。















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2010/11/6