「全く、こんな暑い最中、一日中歩き詰めじゃあ倒れるに決まってんだろ」
はっきりしない意識の中で、そんな声を聞いた。
「俺の、不注意です」
「当たり前だ!」
「以後、気をつけます」
やけに素直な薬売りさんの声に、笑ってしまう。
けれど、力が入らなくて笑えない。
私、どうしたんだろう…?
そういえば、いつの間に横になったんだろう…?
重い目蓋を持ち上げて、周りを確かめようとしたけど、目の上の何かがそれを遮っていて何も見えない。
その何かを取ろうと手を動かす。
ほんの少し腕を持ち上げればいいだけのはずなのに、それさえも重くて億劫になる。
「気が付きましたか」
さっきよりも近くで薬売りさんの声がした。
そして視界が明るくなる。
「…ん…」
ぼんやりとした視界に、薬売りさんの鮮やかな着物が映る。
私を覗き込む薬売りさんは、何処か沈んだような表情をしていた。
「あの…」
「まずは、水を」
そう言うと、薬売りさんは私の頭を持ち上げて抱き起こしてくれた。
そして枕元に置いてあった湯呑みを私の口に当てた。
「暑さで、倒れたんですよ」
戸惑う私にそう説明して、もう一度湯呑みを当ててくる。
一口飲むと、水が身体に滲みこんでいくのがはっきりと分かった。
もっと飲みたい。
緩慢に両手を動かして、薬売りさんから湯呑みを受け取ると、一気に飲み干してしまった。
「ほれ見ろ。一体どれだけ歩かせたんだか」
さっき薬売りさんを叱っていた声。
そっちに目を向けると、総髪の男の人が座っていた。
「暑さにやられたんだ、一晩は大人しく寝てるんだな」
「は…はい…」
「全く、こんな男について歩いてると、碌なことはねぇぞ」
「えっと…」
私は助けを求めるように薬売りさんを見る。
薬売りさんは甕から水を掬っていた。
「医者、ですよ。自称」
「自称じゃあねぇ。お前だって同じようなもんだろうが」
四角い顔のその人は、薬売りさんを知っている風な喋り方をしている。
「俺は菱井良月。こいつとは、まだ江戸に居た頃に一度会ったことがあってな。そん時は連れなんぞ居なかったからなぁ、驚いたぜ」
お酒でも飲み始めそうな感じがする。
薬売りさんは、無視して二杯目を私に勧めてくる。
私は素直に受け取って、また水を飲む。
「しかしまぁ、連合いの様子も気に掛けられねぇんじゃ、すぐに愛想付かされるから気をつけろよ」
連合い…?
「余計なお世話、ですよ」
「どうだかな」
薬売りさんは、この良月さんという人に、私をどう紹介したんだろう…?
「さんも目が覚めた事だし、俺は行くぜ。此処にはいつまでいるつもりだ?」
「彼女の体調を見て、三、四日は…」
「それなら、そのうち俺に付き合えよ。…それから“彼女”だとか、他人行儀な呼び方はやめてやれ。じゃあな」
良月さんは軽く手を振って部屋を出て行ってしまった。
薬売りさんは、閉まった障子を眺めながら、珍しく大層な溜め息をついた。
「あの…、薬売りさん?」
「あぁ、すみませんね」
「あの人は」
「言った通り、ですよ。三年ほど前、だったか、江戸で…」
「モノノ怪ですか?」
「ええ」
「じゃあ、あの人は薬売りさんが何をしてるのかも」
「ええ」
「そうですか…」
「どうか、しましたか」
「いいえ」
三年前も、薬売りさんはモノノ怪退治をしていたのかと、そう思っただけ。
あの人は、三年前の薬売りさんを知っているのかと、思っただけ。
「あの、良月さんには、私のことを何と説明したんですか…?」
「何、とは」
「だって、連合いって…」
「俺は助手だと、言っただけ、ですがね」
「助手…」
「あいつは、良いように解釈するところが、あるんですよ」
「はぁ」
「それより」
「…え?」
「大丈夫、ですか」
そう言って薬売りさんは手を伸ばしてきた。
私の、頬に。
「だ、大丈夫です!」
何をしてくれているんですか、この人は!?
慌ててその手から逃れようとしても、身体がだるくて言うことを聞いてくれない。
「顔色も、よくなって、来ましたね」
安心したように目を細めて、こっちをじっと見てくる。
それは、その手のせいじゃないんですか?
「あの…く、薬売りさん…」
「何ですか」
「手を…」
「あぁ、すみませんね」
何を気にするでもなく、薬売りさんはやんわりと手を離した。
たまに疑問に思う。
この人は何を思ってこんなことをするのか。
「薬売りさん」
「何、ですか」
「私は、助手ですよね」
「さっき、言ったでしょう」
「ですよね」
「しかし…」
「…?」
「“ただの助手”じゃあ、ないですがね」
薬売りさんはいつものように口角を上げて笑う。
これは絶対に面白がってる。
妙な事を言って、私が困るところを見て楽しんでる顔だ。
その科白に、あからさまに不満の表情を見せてやった。
「何ですか、その顔は」
「地顔です」
「そうですかね」
「そうなんです」
「何か、言いたいことがあるんで」
私は、ちらりと薬売りさんを見てからすぐに目を逸らした。
「…少し、休ませてください」
そう言って、薬売りさんに背を向けて布団を被った。
どうしてそうやって、期待してしまうような事をするの。
どうして、そうやって…
働かない頭の中で、そんな事ばかりがぐるぐると渦巻いた。
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2010/11/6