生まれてこの方、両親にも使用人にも愛されて、何不自由なく幸せに暮らしてきた。
綺麗な着物を着て、美味しいものを食べて、お稽古事をしたりお芝居を見に行ったり。
とにかくアタシは恵まれた人間だと思ってた。
店が繁盛するまで、父や母はそれなりに苦労したらしいけど、それはアタシが生まれる前のことで、アタシは一切知らないことだった。
十六になって、そろそろ婿をとろうって話が出てきた。
いくつか見合いを持ちかけられて、何人かと会ったわ。
でも、どの人も気に入らなかった。
アタシよりも父の顔色ばかり覗って、結局皆、店が目当てだって思った。
当然だけど。
身を立てるための、ただの手段であり道具だもの。
そんなことは分かってた。
でも、何処かでアタシを見てくれる人を探してた。
そんなときに、出会ったの。
お見合いの席で、ちゃんとアタシを見てくれた人が。
その人は、お見合いの後もアタシを誘ってくれた。
お芝居を見に行ったり、ただ散歩をしたり。
とても嬉しかった。
例えそれが、最終的にはお店が目当てであっても。
アタシを通して、父や店を見ていたとしても。
その人に視界には、ちゃんとアタシが居たから。
「そう、思ってた。…でも」
父とアタシとその人でお芝居を見に行った帰りだった。
日も暮れて真っ暗になって、人も疎ら。
この川沿いを歩いてた。
「確か諒太郎さんは、塩田屋さんには養子に入ったのだったかな?」
「…はい…」
「以前は何をしていたんだい」
「何故、そのようなことを?」
「いや、君のような青年を育てたのは、さぞご立派な方だと思ってな。なぁ、お莉津?」
「ええ」
「…そんな事は…」
父が、何の気なしに発した言葉だった。
でも、それはその人にとっての、禁句だった。
「私は四つの頃に産みの両親と死に別れ、七つまで親戚の家、それ以降を塩田屋で過ごしました」
「それは、苦労をしたな」
「いいえ、皆、良くしてくださいました」
アタシには、何だかその人の様子が変わったように見えて、少し怖かった。
「ご両親は何故? いや、話したくなければ話さずともいいが」
「実の父母は…自害、いたしました」
「自害だと?」
これから婿に入ろうとする人が、話していい事じゃない。
親が自害したとなれば、今までの印象なんてなくなってしまうのに。
「はい。雇い主の酷い仕打ちで職を失くし、他の働き口を探そうにも、元の雇い主の手回しで何処も雇ってはくれず」
「…な、に…?」
今度は、父の様子がおかしくなったような気がした。
「生活に困り、私を親戚に預けたまま、二人、自害しました」
その人は、とても遠くを見ていた。
「教えて差し上げましょうか、三橋屋さま」
「…何をだ?」
「父を雇っていた男の名を」
「いや…」
「三橋屋正衛門と言うんです」
その時、その人は手に短刀を持っていた。
何処から取り出したのかは分からなかったけど、きっと、ずっと持っていたんだ。
ずっと懐にでも隠し持って、この時を待っていた。
「貴方は昔、雇っていた職人達に大層酷い仕打ちをしていたというじゃないですか」
その人の顔が、父の顔が、歪んでいく。
「安い賃金で働かせて、納期だ何だと馬車馬のように扱使い、過労で倒れた者はそのまま見捨てたそうじゃないですか」
「それは、昔の話だっ」
「昔、ですか。私の親は、その昔の貴方に殺されたんですよ」
言葉遣いがとても丁寧で、なのに言っている事はとても恐ろしかった。
そうして思ったの、頭の隅で。
この人も、私を見ていたわけじゃなった。
この人こそ、父や店を見ていた。
「両親の仇…!!」
その人が父に襲い掛かった。
それを見た瞬間、アタシの体は勝手に動いていたの。
衝撃とともに鋭い痛みが、身体の中心から全身に駆け巡った。
息が出来なくて、声も出なくて。
「お莉津…!」
すぐ傍で、父の声がした。
倒れこむアタシを受け止めて、目を見開いている。
余り揺すらないで、痛いから。
「お…お莉津さん…」
驚いた顔で、アタシを見るその人。
手には、真っ赤に染まった短刀を持っている。
どうして、驚くのよ。
「ねぇ、諒太郎さん…。昔の父の事、初めて知ったわ…酷い人だと思う。それでも、アタシの父なの。アタシも父を亡くしたくない。だから、アタシの命で我慢してくれる?」
「何を言ってるんだ、お莉津!」
「お莉津さん…私は…」
「アタシ、嬉しかったのに。やっと、アタシを見てくれる人が現れたと…思ったのに」
「…す」
「謝らないで。…いいの、幸せだったから」
霞んでいく。
遠のいていく。
沈んでいく。
「お父様、利津は本当に幸せでした」
例え誰かに辛く当たっていたとしても、アタシにくれた愛は本物だったから。
沢山、沢山、幸せだったから。
だから、この先店を継げない事や孫の顔を見せてあげられない事が残念。
先に逝く娘を許して。
「アタシが死ぬ事、自分のせいだなんて…思わないで、ね…」
アタシが勝手にしたことだから。
そうして目を閉じると、何もかもが無くなった。
「こんな感じかしら」
「そう…ですか…」
アタシが話す間、娘さんは小さく相槌をしながら聞いてくれていた。
本当に、不思議な人だと思う。
感想を言うでも、同情するでもなく、ただ隣に座ってる。
まぁ、それが一番ありがたいんだけど。
「幸せだったのに、どうしてアタシ、ここにいるのかしらね」
「何か、気にかかる事とかありませんか」
「ずっと考えてるんだけど、思い当たらないのよ」
随分と日が傾いて、目に沁みる。
死んでるのに、可笑しな話だ。
「ねぇ、アタシって生まれてきた意味あると思う?」
「…え…?」
「十六年しか生きられなくて、何もなくて、残せなくて、生まれてきた意味あると思う?」
「…それは…」
「明日までの宿題にする」
「え?」
「もう、日が落ちるわ。危ないから帰った方がいい。…明日、また来てくれる?」
「…はい」
この娘さんは、アタシの知らないことを知っていて、アタシの見たことの無いものを見てきた。
そんな感じがする。
とても、穏やかな気持ちになる人だ。
また会いたいと、思った。
アタシはここから動けないから、会いに来てと言うしかなくて。
「そうだわ、名前を教えてよ」
「です」
「そう。じゃあさん、待ってるから」
「はい」
NEXT
2011/6/26