幕間第五十三巻
〜ばか・七〜




 森の中にある、何もない空間。
 その隅の方には、古びた祠がある。

 薬売りとは、紗菜をそこへ連れて来た。
 紗菜は半信半疑、いや、どちらかというと疑っている。
 本当に荘太が待っているのかどうか。
 もう、荘太は死んでしまっているのに。

 祠の前まで来て、紗菜ははっとした。

「ここは…」

 その声に薬売りもも、紗菜を振り返る。

「覚えがありますか?」
「はい。…一度、二人で町を抜け出して、ここまで来た事があります」

 の問いに、紗菜は自身でも驚いたように答えた。

「だ、そうですよ」


 薬売りが、祠の脇の何もない空間にそう声を掛けた。

 そして、少し間を置いて薬売りはクツクツと喉を鳴らし、は口に手を当てて小さく笑った。

「あの…」

 訳の分からない紗菜。
 とても異様な光景だ。

「あぁ、すみませんね」

 薬売りはそう言うと、一枚の紙を取り出し何かを唱えると、その何もない空間に貼り付けた。

 すると、そこは淡く光を放って、それから何かの輪郭を形作った。
 そしてぼんやりと、何かが姿を現した。

「…え…」

 紗菜はその光景に息を呑む。

 何もなかったはずの場所に、男が一人立っている。
 しかも、その姿は半透明で、向こう側が透けて見えるのだ。

 それでも、確かにそこに人が居る。
 雌黄の着物に、やや日に焼けた肌。
 細身だが長身で、がっちりとしている。
 見るからに活発そう、というかやんちゃそうな風貌だ。
 けれど、面影がある。

「まさか…」

 信じられない、という表情をする紗菜。


“…よ。久しぶりだな”


 気まずそうに笑う男。


「荘太…なの?」
“あぁ、悪いか”


 次第に目に涙を溜めていく紗菜を、荘太は頭を掻きながら見つめた。


“随分、女っぽくなったんじゃねぇの”
「余計なお世話っ」


 悪戯っぽく言った荘太に、紗菜は間髪入れずに返す。
 薬売りもも、さっきまでと雰囲気の変わった紗菜に少々驚いている。
 あれはあくまでも他人への態度で、素の彼女はこちらなのかもしれない。


“なんだ、中身は変わってねぇの”
「うるさい! アンタなんか、酷い変わり様じゃない」
“確かに。つるんでた連中のせいだろうな”
「…違う」
“…”
「…死んだじゃないの」



 ポロポロと涙を流しながら、紗菜は荘太を見上げた。



“…そうだな…”




 それまでの悪戯っ子の様な顔から、哀しい笑みに変わった。




 それから暫く沈黙が続いた。




 その静かな空気を、薬売りもも見守るしかなかった。






 沈黙を破ったのは、紗菜のほうだった。

「何で此処にいるの?」
“分からねぇ…。死んで、気付いたら此処にいて、ここから動けねぇんだ”

 紗菜の問いに、荘太は薬売りに聞かれた時と同じように答えた。

「覚えてないの?」
“あぁ”

「アタシもバカだけど、アンタもやっぱりバカ」
“何だよ、それ”


 紗菜は、若干の怒りを込めた視線を荘太にくれてやった。


「ずっと小さい頃、アンタ、此処で、アタシの事お嫁さんにしてくれるって言ったんだよ」


“…”


 荘太は、目を見開いた。


 言われて、抜け落ちていた記憶が甦ってきた。


 誰かが言ってた。
 森の中の祠で願い事をすると、それが叶うのだと。
 それを真に受けて、二人で町を抜け出してきた。
 今のように人の通る道はなく、子供の足という事もあって、見つけるのに時間がかかった。
 漸く見つけた頃には日が暮れていて、とても怖かったのを思い出した。

 二人とも心細かったけれど、幼い紗菜は怖がりで今にも泣き出しそうだった。
 そんな紗菜を喜ばせたいと思って、口にした願い事。


『紗菜が、俺のお嫁さんになりますように』


 紗菜は驚いていたけれど、とても喜んでくれた。
 そうして、それに答えるように、紗菜も声に出した。


『荘太のお嫁さんになれますように』


 幼かった二人の、小さな、けれど大切な約束。




 その夜は、帰りが遅くなって、二人ともとても疲れてしまった。
 家に帰れば、二人が帰ってこないと大騒ぎになっていて驚いた。
 元々どちらも活発で、いつも親を心配させていたけれど、その夜ばかりは本当にこってりと絞られて、とても後味が悪かった。
 だから、その日の記憶は、嫌な記憶として封印されてしまった。

 けれど、約束だけは、ひっそりと胸の中で息づいていた。




「バカみたいに信じてた…。子供の言う事なのに」




 次から次へと、涙が溢れる。




「何で死んだのよ、この大バカ!!」







“バカ、か…。ホントにな”


 溜め息を飲み込むために、荘太は空を見上げた。
 腕を組んで、肩の力を抜く。


 荘太が力を抜くと同時に、何処かから声が降ってきた。



「ホントに、行くからね」
「…仕方ねぇだろ」
「うん…」

 今と同じ。
 沈んでいく空気が嫌だった。
 だから、強がった。
 あの時は。


「清々するだろ、もう怒鳴らなくて済むし」
「…」
「俺も清々するぜ。お前の顔見なくて済むからな」


 少女の、紗菜の口が真一文字に結ばれるのに、気付かないふりをした。

「もうガミガミ言われないし」

 いつもの調子で軽く言い合って、いつもの調子で軽く別れて―。



「…か…」



「は? 何か言った?」






「ばかっ!!!」






 そう言って、紗菜は駆けて行ってしまった。







 いつもの調子で、次の朝も顔を合わせる。







 もう、出来はしないのに。
















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もうちょっとです。

2012/7/8