幕間第六十九巻



〜初恋・参〜





 刺す様に冷たい風が吹く朝。
 奉公先へ向かう道すがら。

 白い息が宙に消えていくのを、繰り返し見つめる。

 ここで待っていれば、会えるだろうか。
 光太郎さんに。

 何も言わないで発つのも味気ないからと、薬売りさんが言ってくれた。
 別れの挨拶くらい、していったらいいと。

 本当はそれも嫌なんじゃないですか、と冗談っぽく聞いたら、口角を上げて笑っていた。



ちゃん!」


 薬売りさんの顔を思い出していた所で名前を呼ばれた。


「光太郎さん」


 寒さを微塵も感じさせない、颯爽とした歩調だった。


「よかった、ここで待っていれば会えるかと思って」

「…俺に?」

 コクリと頷くと、光太郎さんの顔がパッと明るくなったような気がした。

「明日、発つ予定なので、挨拶を」

 そう言った瞬間、目に見えて残念そうな顔になった。
 この人は、あの頃のまま、純粋なままなのかもしれない。

「連れっていうのは、男…だよな」

「はい」

「その、」

「恋人です」

 言い辛そうにするから、こちらから言ってしまった。


「…そっか…」


 弱弱しい笑顔を見せる。


「光太郎さんは、お嫁さんは?」

「まだ、修業中の身だから」

 あれから何年たったか。
 職人の道というのは、簡単なものではないのだ。

「でも、もう少しで認めてもらえそうなんだ」

「それは何よりです!」

「あぁ」

 照れると耳の後ろの辺りを掻くのは昔と変わらない。


「それじゃあ、仕事にいかないと。…頑張ってくださいね」

「あぁ、ありがとう」

「お元気で」

ちゃんも」



 笑顔で別れると、何だかとても清々しい気分だった。
 その場から離れるのにも、足取りが軽い。


ちゃん!」


 けれど、それを止める声があった。


 振り向くと、光太郎さんが足早に追いかけてきていた。

 光太郎さんは、あと数歩のところで立ち止まって、真っ直ぐに私を見た。

 昨日もさっきも見てるのに、随分背が伸びたんだな、と思う。


「言いたかったことがあるんだ」

「え?」

「ガキの頃は、ちゃんと話せないうちに町を出ちまったから」

 苦笑交じりの声。

「俺、あの頃ちゃんと一緒に居られて、凄く救われてたんだ」

「救われた…ですか?」

「あぁ。…俺たち二人とも、母親しかいなかっただろ? だから正直、結構厳しかったよな」

 私は戸惑いながらも、頷いた。

「まだガキだったから、親方にも兄弟子たちにも厳しくされて、めげたり腹が立ったりしてたんだ。でも…」

 真っ直ぐな力強い目が、私を捉えている。

「蕎麦屋でちゃんと知り合って、ちゃんの境遇知って…。もしかしたら俺より大変かもしれないのに、毎日笑顔で、いつも明るくて…。俺も、頑張ろうって思ったんだ」


「そんな…風に…?」

 私の問いに、光太郎さんは力強く頷いた。

 光太郎さんが、私をそんな風に思っていたなんて、全然知らなかった。
 そう見られていたのかと思うと、とても恥ずかしい。
 恥ずかしいけれど、嬉しい。



 やがて光太郎さんは力を抜いたように、ふっと笑った。



ちゃんは、俺の初恋だったよ」

「!」


 やけに唐突に感じた。
 考えなくても、そんな話の流れだった。
 けれど、きっと光太郎さんはそこには触れないと思っていた。
 きっと仕舞っておくだろうと。


「…実は、夫婦になろうって約束した娘がいるんだ」

「そうなんですか」

「来年、親方の下に戻ることになってて、連れて行こうと思ってる」

 耳の後ろを掻く癖。

「…俺、笑顔に弱いらしくて」


 苦笑しながら、光太郎さんは私を見た。
 何故だか可笑しくて、思わず吹き出してしまった。

「ふふっ」

「笑うところかよ」

「だって、惚気じゃないですか」



 一頻り笑って、それから居住まいを正した。



「光太郎さん」

「ん?」

「光太郎さんは、私の初恋でしたよ」

 私がそう言うと、光太郎さんは驚いた顔をした。

「…知らなかった…」

「言ってませんもん」

 当時の自分は、自覚してなかったけれど。
 でも、“夫婦になる”ということは考えられなくても、“好き”という気持ちは持っていた。
 気持ちは持っていても、伝える術も、機会もなかった。

 それはきっと、私たちにとって幸いなことだった。
 必然であり、定められていたこと。

 互いに初恋だったけれど、だからこそ今は、別な人がいる。
 それが、今の現実。
 私は今が幸せだし、光太郎さんだってそう。


「じゃあ、お幸せに」


ちゃんも」


 笑い合って、道を分かれた。
















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2014/11/2