刺す様に冷たい風が吹く朝。
奉公先へ向かう道すがら。
白い息が宙に消えていくのを、繰り返し見つめる。
ここで待っていれば、会えるだろうか。
光太郎さんに。
何も言わないで発つのも味気ないからと、薬売りさんが言ってくれた。
別れの挨拶くらい、していったらいいと。
本当はそれも嫌なんじゃないですか、と冗談っぽく聞いたら、口角を上げて笑っていた。
「ちゃん!」
薬売りさんの顔を思い出していた所で名前を呼ばれた。
「光太郎さん」
寒さを微塵も感じさせない、颯爽とした歩調だった。
「よかった、ここで待っていれば会えるかと思って」
「…俺に?」
コクリと頷くと、光太郎さんの顔がパッと明るくなったような気がした。
「明日、発つ予定なので、挨拶を」
そう言った瞬間、目に見えて残念そうな顔になった。
この人は、あの頃のまま、純粋なままなのかもしれない。
「連れっていうのは、男…だよな」
「はい」
「その、」
「恋人です」
言い辛そうにするから、こちらから言ってしまった。
「…そっか…」
弱弱しい笑顔を見せる。
「光太郎さんは、お嫁さんは?」
「まだ、修業中の身だから」
あれから何年たったか。
職人の道というのは、簡単なものではないのだ。
「でも、もう少しで認めてもらえそうなんだ」
「それは何よりです!」
「あぁ」
照れると耳の後ろの辺りを掻くのは昔と変わらない。
「それじゃあ、仕事にいかないと。…頑張ってくださいね」
「あぁ、ありがとう」
「お元気で」
「ちゃんも」
笑顔で別れると、何だかとても清々しい気分だった。
その場から離れるのにも、足取りが軽い。
「ちゃん!」
けれど、それを止める声があった。
振り向くと、光太郎さんが足早に追いかけてきていた。
光太郎さんは、あと数歩のところで立ち止まって、真っ直ぐに私を見た。
昨日もさっきも見てるのに、随分背が伸びたんだな、と思う。
「言いたかったことがあるんだ」
「え?」
「ガキの頃は、ちゃんと話せないうちに町を出ちまったから」
苦笑交じりの声。
「俺、あの頃ちゃんと一緒に居られて、凄く救われてたんだ」
「救われた…ですか?」
「あぁ。…俺たち二人とも、母親しかいなかっただろ? だから正直、結構厳しかったよな」
私は戸惑いながらも、頷いた。
「まだガキだったから、親方にも兄弟子たちにも厳しくされて、めげたり腹が立ったりしてたんだ。でも…」
真っ直ぐな力強い目が、私を捉えている。
「蕎麦屋でちゃんと知り合って、ちゃんの境遇知って…。もしかしたら俺より大変かもしれないのに、毎日笑顔で、いつも明るくて…。俺も、頑張ろうって思ったんだ」
「そんな…風に…?」
私の問いに、光太郎さんは力強く頷いた。
光太郎さんが、私をそんな風に思っていたなんて、全然知らなかった。
そう見られていたのかと思うと、とても恥ずかしい。
恥ずかしいけれど、嬉しい。
やがて光太郎さんは力を抜いたように、ふっと笑った。
「ちゃんは、俺の初恋だったよ」
「!」
やけに唐突に感じた。
考えなくても、そんな話の流れだった。
けれど、きっと光太郎さんはそこには触れないと思っていた。
きっと仕舞っておくだろうと。
「…実は、夫婦になろうって約束した娘がいるんだ」
「そうなんですか」
「来年、親方の下に戻ることになってて、連れて行こうと思ってる」
耳の後ろを掻く癖。
「…俺、笑顔に弱いらしくて」
苦笑しながら、光太郎さんは私を見た。
何故だか可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ」
「笑うところかよ」
「だって、惚気じゃないですか」
一頻り笑って、それから居住まいを正した。
「光太郎さん」
「ん?」
「光太郎さんは、私の初恋でしたよ」
私がそう言うと、光太郎さんは驚いた顔をした。
「…知らなかった…」
「言ってませんもん」
当時の自分は、自覚してなかったけれど。
でも、“夫婦になる”ということは考えられなくても、“好き”という気持ちは持っていた。
気持ちは持っていても、伝える術も、機会もなかった。
それはきっと、私たちにとって幸いなことだった。
必然であり、定められていたこと。
互いに初恋だったけれど、だからこそ今は、別な人がいる。
それが、今の現実。
私は今が幸せだし、光太郎さんだってそう。
「じゃあ、お幸せに」
「ちゃんも」
笑い合って、道を分かれた。
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2014/11/2