「…いやぁ…」
大きな屋敷の門の前に、一人の男が立ち尽くす。
ため息混じりに呟いて、見遣った先には白無垢の後姿と、その足元の小さなネコ。
足元のネコは、つい先ほど、男が“斬った”。
あれよりも、比べ物にならないほど大きく、力を持っていた。
力を持った、とても哀しい存在だった。
この屋敷の主に拉致、監禁され死んだ女の情念が、可愛がっていたネコに宿り、モノノ怪と化してしまった。
そして男がそれを斬った。
その女とネコが、はしゃぐ様に門をくぐり抜けて来たことには、彼自身が一番驚いた。
けれど、死して漸くこの屋敷から出られたのだ。
二人とも、幸せなのだろうと、思うことにする。
女とネコの後姿を見れば、彼女たちの姿は次第にぼんやりと薄れていく。
それでいい。
あちこちで蝉が喚く中、ふと、男は気付く。
彼女たちの後姿に向って、手を合わせている娘がいる。
この時代、女髷も結わずに髪を下ろして、ただ先の方で緩く結んでいるのは珍しい。
更に、足元には旅支度。年若い娘が旅など、珍しい。
しかしそれ以前に、彼女たちが見えること自体、実に珍しい。
あれは、普通の人間には見えない。その証拠に、彼女達が進む道とは反対側に、婚礼の籠を担ぐために待ちぼうけを食らっている者たちがいるが、彼らは男にしか気が付かなかった。
「…ほぅ…」
感心しているのかどうかも判別出来ないような、気の無い声を出す男。
娘はしっかりと目を瞑り、何か必死に祈っているように見える。
男は、遠目にその横顔を盗み見る。
しばらくして娘は、漸く時を動かし始めた。
くるりと踵を返すと、はたり、男と目があった。
娘は、男に見られていたと分かり驚いたらしく、再び時を止めた。が、すぐに解いて軽く会釈をする。
男は僅かに口角を上げて、それに応える。
もとより、上唇に引いた紫の紅によって、いつも笑っているように見えるのだが。
娘は足元に置いていた荷物を拾い上げると、男の前を横切っていった。
通り過ぎるほんの一瞬。
男は娘に、娘は男に、“何か”を感じた。
何、あの人…?
足早に男から離れて、娘は町の中を歩いていた。
今朝、あの屋敷の前を通ったとき、中から“声”が聞こえたような気がして、気になって何度か様子を見に行っていた。
門の外で将棋を打っていた者に聞けば、今日はお姫様の輿入れがあるとかで、忙しいのだという。
けれど、お姫様は一向に出てこず、騒がしかった門の内側もいつのまにか静かになっていたという。
それとどう関係があるかは分からないが、次第に“声”も大きくなった。
しかしその言葉は「ねこ、ねこ」と繰り返すばかり。
こうなっては、旅費稼ぎどころではない。
その場を離れられず、それを何刻か聞き続けていると、出し抜けにその“声”が止んだ。
しばらく立ち尽くしていると、背後を何かが通り過ぎる気配に気付いた。
振り向けば、白無垢。
聞かずとも、声の主だと分かった。
この世のものでもないことも。
もちろん、彼女の足元に転ぶように纏わりついているネコも、この世のものではない。
娘には、手を合わせて祈ることしか出来なかった。彼女たちの平安を。
祈り終えてその場を離れようと振り返ると、あの、不思議な出で立ちの男と目が合った。
全体的に色素が薄く、けれど目の周りは紅い隈取で強調させている。淡い青を基調とした着物に、高下駄。大きな行李を背負って、何かの行商のようだった。
その男の纏う空気は、他の誰より異質だった。
醸し出す雰囲気が、独特すぎる。
少しだけ、怖かった。
娘は、男を気にしながらも、今晩の宿を探しにかかった。
考えるのは、布団の中だ。
翌日、娘はまだ早いうちから起きだした。
借りた部屋は六畳もない物置のように小さな部屋。その片隅に布団を畳むと、髪を後頭部で括ってから部屋を出た。
「おはようございます」
そう言って土間に入る。
竃に向って、朝餉の準備をしている後姿に声を掛ける。
「おう、早いね。早速だが、膳を並べてくれるかい?」
「はい」
四十ほどの小太りの男に言われたとおり、娘は土間の角にある棚から積み上げられた膳を運び出す。
「えぇっと、名前は何て言ったかね?」
「です」
「おぉ、そうだった。で、いつまでここに?」
「明後日まで、ご厄介になります。何でも言いつけてください」
笑顔でそう言うと、は出し終えた膳を布巾で拭いていく。
「女の一人旅は、大変だろうに」
それには、苦笑いで応える。
こうやって、宿の手伝いをして宿代を安くしてもらったり、給金を貰ったりする。
それが彼女の旅費になる。
「何処に行くんだい?」
「…宛ては無いんです。バカな話ですけど」
「へぇ?」
皿を取り出すために、男に背を向けている。どんな顔で言っているのか、男には分からなかった。
「身内がもう居ないので、この際働きながら足の向くまま気の向くまま、旅をしてみようかと」
振り返る娘の表情は、明るい。
その顔に、男は寂しげな、同情を示すような曖昧な笑顔を返した。
の持つ籠の中は、野菜で埋め尽くされた。
が泊まった宿は、昼にも食事処として暖簾を掲げている。そのため昼前に食材の仕入れをする。
野菜を仕入れてくるように言われたは、その帰り道、少しだけ寄り道をした。
昨日の、あの屋敷に。
輿入れのための大きな籠は姿を消し、門は閉ざされその上から木片が打ち付けられていた。
出入り禁止、お取り潰し、ということだ。
「一体、何が…」
声はあれから聞こえてはこない。
こんなことは、今までなかった。急に声が途絶えるなんて。
は門の外をそのままぐるりと歩き、裏口を探す。
すると正面の門とは真反対の場所に、小さな裏口を見つけた。
覗きこもうとして近付くと、中から声が近付いてきた。
思わず引き返して隠れる。
出てきたのは、顎の青いお侍と、少し色の黒い娘だった。
「では、加代殿、ここでお別れですな」
「はい、小田島様もお元気で」
お取り潰しを受けた家の者とは思えないくらい、清々しい顔をしている。
「…薬売りさん、いつの間にか居なくなってましたねぇ」
「そういう奴なんだろう、きっとな」
そうですね、と笑う加代という娘。
薬売り。
昨日の奇妙な人だろうか。
あの人が、何か関わりが…?
籠を持つ手に力が入る。
「娘さん、ここで何をしている」
はっと顔を上げると、小田島というお侍がこちらに近付いてくる。
割れた顎の先から頬まで青い。
「い、いえ…何も」
「嘘をつけ、こちらを窺っていたではないか」
長身の男の圧迫感に、肩を竦める。
「やめてくださいよ〜、小田島様ぁ。怖がってますってぇ」
すぐに加代が追いかけてきて、小田島の袖を引っ張る。
「あぁ、すまん、脅かすつもりでは…」
「いえ。…あの、こちらはどうして…?」
果たして易々と答えてくれるものだろうか。
「化け猫が出て、ご隠居様とアタシたち意外み〜んな食べられちゃったのよ」
「ばけねこ…」
「そう、化け猫。すっごく怖かったのよ〜? 薬売りさんが退治してくれたんだけど…」
普通の、一般の、平均的な人間なら、そんな冗談真に受けるはずもない。
そんなことをさらりと、家が潰れた原因だという。
それに加え、モノノ怪を退治するものまでいようとは。
はあの薬売りの雰囲気を思い出した。確かに、何かありそうな人物だった。
「あの、昨日お輿入れの予定だった方は、ネコをお連れでしたか?」
「えっ!?」
加代と小田島、二人とも目を丸くして顔を見合わせる。
は昨日見た白無垢の娘とネコのことを言っている。違うのだろうか。
「ううん、ネコを可愛がっていたのは…昔ここで亡くなった人。真央様は化け猫に…」
真央というのが、あの籠に乗るべき人だったのだろう。
「薬売りに言わせると、モノノ怪だって話だ」
「そう、ですか。…モノノ怪」
そう言って妙に納得する。
加代と小田島は再び顔を見合わせる。
「あ、あの…信じちゃうんですか、この話?」
「現実に起こったなどと、到底信じられまい」
自分達で話していて、信じられないだろうとはどういう了見だろう。
が首を傾げると。
「お役人に話しても、信じてもらえなかったのよね」
と、加代はぼやいた。
加代も小田島も、見たままの事を話したけれど、モノノ怪など常人には理解しがたい。
「でも」
は二人を見る。
「私も声を聞きましたから」
がそう言って去った後、加代と小田島がもう一度顔を見合わせたのは言うまでもない。
NEXT
何だかとっても夢じゃない。
2009/8/20