天気雨の夜

初見〜二の幕〜




 大きくて、派手な店構え。
 年の行った女将と、色黒くるくる頭の番頭。
 何十人と居る奉公人。何十人と居る泊り客。
 あちこちから聞こえる笑い声。あちこちから聞こえる三味線の音。あちこちから聞こえる食器のぶつかり合い。あちこちから聞こえる人の行き交う足音。
 頭上からは、屋根を打つ雨音。


 そして…。
 それらに混じる、子どもの声。






 煩くて眠れない。

 はぼんやりと天井を見つめていた。
 一番安い部屋のはずなのに、天井板一枚一枚にも鮮やかな色彩で絵が描き込まれている。
 天井ですら煩い。
 遠くで、皿の割れる音とどよめく声、そして馬鹿笑いが聞こえてくる。
 こんな夜中まで、よくも騒いでいられる。余程金余りなのだろうか。
 それに、この子どもの声。
 この世ならざるもの。
「こんなに沢山の子どもが…どうして…」
 さっきから上の方で騒いでいる。
 ここが一階の一番安い部屋。多分子どもの声は最上階あたりだろうか。
 おっかぁ、おっかぁ。
 そう言って嬉しそうに走り回っている。
 確かに声のする方に、する方に、と旅を続けてはいるが、この数は感心できない。
 自分の考えが甘かったのだろうか。
 その声は暫く続いて、そのせいか耳が慣れてしまったらしく、は静かに目を閉じかけた。

「―っ!?」

 ビクリと身を震わせて、何事かと起き上がる。
 いきなり、子どもの声色が変わった。嬉しそうな声から、殺気めいたものが込められた声になった。
 そしてそれからが酷かった。

「何なの…」

 は耳を塞いで音を遮断しようとした。
  けれど、常人には聞こえないその声は、空気を振動させて伝わってくるものではない。
 耳を塞いだところで、聞こえなくなるものではないのだ。
 その声は、けたたましく“おっかぁ、おっかぁ”と喚いている。
 上で何が起こっているのか、全く分からない。
「やめて…! 耳が、痛い…」
 は手を合わせて祈った。
 それしか出来ない。
 こういう声に出くわしたときには、いつもそうしている。
 ただ、安らかに。平穏に。
  そう祈って収まってくれるのを待っている。それしか出来ないから。

 やがてその音量がピークを向かえ、ふつりと、途切れた。
“おっかぁになって”
 心臓がズキリと痛む。
 上に居る誰かに対して言っているのは分かっているのに、怖いと思う。
 その声を聞いてしまっていいのかという恐怖。
 自分が、盗み聞きをしているという恐怖。


“おめでとう”
“おめでとう”
“おめでとう”


 次々と抑揚の無い祝福の声が聞こえてくる。
「誰が…」
 これだけの数の子どもの母親になるのか。
 けれど。

“あなたたちのおっかぁにはなれない”

 何処からか、嘆く声が降ってきた。
  それが、人間の女の声、心の叫びだと、は理解った。
 その言葉を最後に、子どもたちの声は止んだ。
 けれど、一瞬何処か満たされたような穏やかな笑い声が聞こえた。
「どうなったの?」
 訳がわからないまま、子どもたちの声も気配もなくなった。
 そうしてまた、笑い声と三味線と、皿と足音。
  降りしきる、雨。


 自分の知らないところで、誰かが“声の主”たちを鎮めている。
 自分には出来ないことをしているものが居る。
 あの薬売りを、思い出した。
 しかし、今回は姿を見たわけではない。
  もしかしたら別な誰かかもしれない。
 誰だとしても、にはない力を持つものだ。
 声を聞こえるのに、それだけ。にはそれ以上のことは出来ない。
  しかも盗み聞きのように、相手はに聞かれていることなど、知らないのだ。

 こんな力あったって、何の役にも立たない。

 は布団を頭まで被って、堅く目を瞑った。





 脚絆を巻いた上から、藁緒を結びつけ、それで宿を出る準備は整った。
 立ち上がって手続き待ちの列に並ぶ。
 これだけ大きな宿で、あれだけ騒がしいのだから、もちろん翌朝宿を出る者は相当な数だ。宿を出る手続きだけで、暫く待ちそうだ。
 はつまらなそうに列に紛れていると、ちょうど正面にある階段から一人の男が降りてくるのを見つけた。
「あ…」
 思わず声を上げる。
 やはり、居たのだ。あの男が。
 全体的に色素が薄く、けれど目の周りは紅い隈取で強調させている。淡い青を基調とした着物に、高下駄。大きな行李を背負った、薬売り。
 静かに階段を下りてくる。
  あの大きな行李を背負っているのに、背中には何もないかのように、体位が傾くことはない。
  昨日、絶対にモノノ怪と対峙したはずなのに、何もなかったかのように、落ち着いている。
 不思議な人。
 そう思った矢先、目が合った。
 は驚いて瞬きを数回。
  向こうはじっとを見つめて、やはり僅かに口角を上げる。
 そそくさと会釈をして、流れた列に視線を遣る。
 何のつもりで笑うのか。
 あの容姿、きっと商売は盛況なはず。何も、一人旅の小娘に色目を使う必要なんて無いだろうに。
 関わり合いになるのは、正直、怖い。
 けれど、には、あの薬売りに無関心で居ることは出来なかった。
 何せ、自分に出来ないことをしている人なのだから。



 だからこうして、宿の外で薬売りを待っている。
 すぐ近くの橋の袂で、商売をしながら男を待つ。
 あれだけ手続き待ちの客が並んでいたのだから、薬売りが来るのも、かなり後だろう。
  そう思っては、旅費を稼いでおくことにした。
 簡単に言うと、見世物。
 は小さな巾着を足元に置いてから、姿勢を正すと、綺麗な声で旋律を奏でた。
 この時代には、きっとない旋律だ。
 三味線に乗せて喉を絞めて声を出すような歌ではない。寧ろ喉を広げて、声を響かせている。
 町人たちが好む賑やかな歌でもない。しっとりとしているが抑揚がある。
 その不思議な歌に、道を行く人は足を止める。
 たちまち人だかりが出来て、巾着の中に銭を投げ入れてくれる人もいた。
 店で奉公するのとは別に、そうやって旅費や生活費を稼ぐのである。
 一曲歌い上げて、ふと宿のほうを見ると、ちょうど宿の戸口から出てくる薬売りを見つけた。
 は集まった人たちに一礼すると、巾着と荷物を抱えてその場を去った。



「あ、あの…!」

 行李を背負う後姿に声を掛ける。
 その呼びかけに、男は足を止めてゆっくりと振り返る。
「…何か、御用で…?」
 うわぁ。
 間近で見る男に、は戸惑いを覚えた。
 これまで遠目に二回見ただけだが、それだけでも男は眉目秀麗と見えたのに、何だろう、この妖艶な面差しは。
 肌が白いのは白粉を付けているからだと思っていたのに、それは地肌。
  頭に被った紫の手ぬぐいの下からふわりと流れる髪は何色と言えばいいのか。
  青朽葉、亜麻色、香色…。どれにも似ていて、どれにも当てはならない。
  瞳の色も然り。見慣れない濃い空色をしている。
 何よりの目を引いたのは、常人よりも大きく、先の尖った耳だった。肉厚でさわり心地の良さそうな耳。

「何か…?」

 正に“見惚れていた”に、男はもう一度問いかける。
「えぇっと、あの…」
 そういえば、声を掛けようとは思ったものの、何を聞こうかというのは考えていなかったように思う。
「薬のご入用で?」
「いえ、そうじゃなくて…あの」
 淡々と話す男とは正反対におたおたと慌てる
  冷ややかな空色の目がを見る。
「昨日の子ども達はどうなりましたか?」
 結局、単刀直入に聞くしかないのだ。
 の問いに、男は僅かに口を開けていて、驚いているようだった。
「子ども、ですか」
「はい。ずっと声が聞こえていたのに、急にそれが止んだので、気になってたんです」
 声が震える。
 初対面の人に、こんな可笑しな話をして、大丈夫だろうか。
「何故、俺に…」
「坂井のお屋敷の前でもお見かけしたので、何となく貴方も関わりがあるのかと」
 ちょっと必死になる。
 一度会っていることは、忘れられているようだ。
  それも仕方が無い。相手は行商人、一日に何人もの客を相手にしているだろう。
  ほんの一瞬目が会っただけの娘を覚えているはずが無い。
「…成程…。あの時の方、でしたね」
「え…」
 覚えているのだろうか。
「手を、合わせていた」
「え…あ、はい。そうです、その時に」
 覚えていてくれたことに喜ぶと同時に、見られていたことに罰の悪さを感じる。
「化け猫だと聞きましたけど」
「えぇ、斬りましたよ。化け猫も、座敷童子も」
 座敷童子。
 あの子ども達は座敷童子だったのか。
「座敷童子ですか…」
 ただ母親を求めていた子ども達。それが座敷童子となるなんて。
「あの子たちは、成仏できたのですか?」
「…さぁ。斬っただけ、なんでね」
 その後のことはさぁて、と呟く。
「そうですか。でも…最期のあの子たち、穏やかな笑い声してました。だから、きっと…」
 は、満足そうに笑って、深々とお辞儀をした。
「いきなり呼び止めて、すみませんでした。何がどうなったのか分かってよかったです」
 男は何も答えずに、またゆっくりと踵を返そうとした。
「あ、あの…」
 呼び止められて動きを止める。
「お名前を聞いてもいいですか? 私は、です」
 男が向う方向は、とは逆だ。もう会うことは無いかもしれない。
  けれど、はモノノ怪を斬ったというこの男の存在を、忘れることは無いだろう。
 だから、名前だけでも心に留めておきたい。
 しかし、男は僅かに口角を上げて、短く答えた。




「ただの、薬売り、ですよ」











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やっとまともに会話した…
2009/8/23