息が白く染まって、宙に舞い上がり、消えていく。
幾度となく、繰り返す様。
春も近いというのに、この辺りにはまだ雪雲が居座っている。
白く染められた町の外れに、忘れられたように佇む一軒のお屋敷があった。
その屋敷の敷居を跨ぐことが出来ず、塀の外で傘をさす一人の娘がいる。
あれから、薬売りと出会って別れてから、数ヶ月が経った。
あの後も、はこの世ならざるものの声が聞こえる方へと旅を続けていた。
行く先々には、声の通り“それ”が存在して、声を上げていた。あるものは嘆き、あるものは悲しみ、あるものは恨んでいた。
けれど、にはそれをどうすることも出来はしなかった。
彼女には“聞く”ことしか出来ない。
それらの心の平安と成仏を祈ることしか出来ない。何日も何日も遠巻きに祈り続けて、ほんの少しばかり声が弱まることもあるのだが、大抵の場合、の方が根を上げてそのまま去ってしまうのだ。
心から、その声の主の平安を祈っているのに、何の役にも立たなかった。
けれど、聞こえるからには聞いてあげたい。他の人には聞こえない、この世ならざるものの声を。
そう思って、旅を続けてきた。
そうして行き着いたのが、雪の降る真っ白な町。
「さむ…」
今まで降った雪は未だ溶けてはいないが、新たに積もるほどの降雪ではない。しかし傘を持つ手は真っ赤だ。
この屋敷から聞こえてきたのは、“東大寺、東大寺”という声。更にもう一つ“仲間におなり”という声も。
東大寺が何かも分からなければ、誰が何の仲間になるのか、全く分からない。
「このままここに居ても、何も変わらないのに」
は、どうするべきか迷っていた。
自分が中に入っても、出来ることは無いし、例えば中に入ったとして、もしかしたらこの世ならざるものたちに取り殺されてしまうかもしれない。
は、それらを鎮める力もなければ、対抗する力もない。だから今までも遠巻きにしてきた。
「ホントに、役に立たない」
この力は、何の為にあるのだろうか。
そんな疑問が大きくなり始めたのは、いつの頃だっただろう。
そう思う度に、あの男の姿が蘇ってきた。
溜め息が、可視化する。
長い時間そこに立ち尽くして、すっかり身体は冷え切ってしまったはずなのに、その可視化する溜め息が恨めしい。
身体を温めようと、その塀に沿って歩き出す。
塀の内側に、どんな景色が広がり、何が在って、何が居るのか、には知る由も無い。けれど、聞こえてくる声だけは妄執じみている。それだけは分かる。
ゆっくりと時間をかけて、ぐるりと一周回っては見たものの、殆んど変化は無いと言っていい。
門の入口からは少し離れたところで、再びじっと考え始める。
「どうせ、何にも出来ないんだし」
宿に戻ろう、と一歩踏み出そうとしたとき、声が止んだ。
あれほど“東大寺”と執着していた声が、仲間を求めていた声が、唐突に消えた。
「え…」
はその不思議な現象に、踏み出したはずの一歩を引っ込めた。
「どうして」
それは、あの時と同じだった。化け猫騒動があった屋敷と、座敷童子のいた宿と。どちらも突然に声が止んだ。
そのうち風にのって、ほんのり香が香った。
何の匂いか、仄かな甘い香り。
その香りが辺りに漂うと同時に、雪雲は散り始め雪が止んだ。
「不思議なことって、起こるときは起こるものね…」
まだ悴んだ赤い手で傘を閉じると、は屋敷を見遣った。
「はぁ!?」
思わず間抜けな声をあげてしまう。
さっきまで雪景色だったというのに、塀の向こうでは桜が満開なのだ。
しかも、あれほど立派に聳えていた門も、塀も、長年廃れていたように朽ち果てている。
「な、何???」
持っていた傘を取り落とすほど。
訳がわからず、ただただ屋敷を眺める。
「ク〜ン」
「ひゃあ!」
足首に何かが纏わり付く感覚で、我に返る。
見れば白くて丸い子犬。
一通り足でじゃれた後、その子犬は何処かへと姿を消して行った。
「またお会い、しましたね」
「へ!?」
子犬に気を取られて気付かなかったが、門の近くにあの男が立っていた。
全体的に色素が薄く、けれど目の周りは紅い隈取で強調させている。淡い青を基調とした着物に、高下駄。大きな行李を背負った。
「薬売りさん…」
もう、二度と会うことは無いと思っていた。思い出すだけで、ただ、その力を尊敬するだけで。
「大丈夫、ですか」
静かに近付いてきて、静かにそう言った。
「…え…何」
「大分、冷えています、ね」
薬売りはそう言うと、静かにの傘を拾い上げた。
パチパチと火鉢の中で音を立てる炭。
その上には鉄瓶がどっしりと置かれ、熱を帯び始めた。
「はぁ…」
軽くため息をつく。
は、今、借りていた宿の部屋にいる。
じんわりと体温を取り戻していく手を、じっと見つめる。
あの後、薬売りはに、手近な宿はないかと聞いてきた。
は宿を取っていることを伝え、案内した。というか、足早に連れてこられた。と言っても何故だか急いでいる風にはとても見えなかったのだが。
薬売りは宿に着くや、宿の者にすぐにを部屋へ連れて行くように言った。
そして本人にはすぐに身体を温めるように、と。の顔色の悪さに少々驚いたようだ。
自分では自覚していなかったが、確かに、皮膚の感覚が全くなかった。足に至っては凍っているのではないかと思うほど。
「情けない…」
自分の体温の低下に気付くことなく、あの屋敷に心が囚われていたのだ。
何て情けない。
項垂れていると、障子の向こうの廊下で声がした。
「お客さん、お連れさんだよ」
ぶっ。連れなんて居ません。
言いたいのは山々だが、言えるわけが無い。
「…はい」
返事の後にするりと障子が滑り、薬売りが姿を見せた。
「温まり、ましたか」
「はい、お陰さまで」
は姿勢を正すと、薬売りに座布団を勧めた。
薬売りは、どうも、と言って障子を閉め、腰を下ろす。
そこではふと気付く。
「あれ、お荷物は?」
「今夜はここに、世話になろうかと」
自分の部屋に置いて来たのだと言う。
「あの、ありがとうございました。思ってた以上に冷えてたみたいです」
へらりと、自分のバカさ加減を笑う。
「何だか、気になっちゃって」
呟きながら、早く湯が沸かないものかと、鉄瓶を気にする。
「以前会ったときから、気になっていたんですがね」
唐突に、薬売りが話し始めた。
薬売りを見れば、鋭く射抜くような視線を向けられていると分かる。
温まった身体がまた冷えていく錯覚に陥る。
「…はい…」
「何が、聞こえるんで?」
来た、と思った。
この人は、こういう話が出来る人だと思ったから、は以前“声が聞こえた”とはっきり言うことが出来たのだ。
「声、です」
正面から薬売りを見据えて、はっきりと言った。
「声、ですか」
「声、です。この世ならざるものの」
薬売りの表情が変わる。口角を上げる、あの微笑だ。
「…ほぅ…」
そんな薬売りの様子に、はびくりとする。面白そうだと言わんばかりの声色。
「お聞かせ願いたく…」
「疑わないんですか?」
「まずは話を、聞かないことには」
パチリ、と炭が鳴る。
「さっきの、あのお屋敷では、“東大寺”と繰り返し聞こえました。それから仲間にしたいと、引きずり込もうとする…」
は聞いたままのことを話す。薬売りは先を待っている。
「以前、貴方を見かけたとき…子供たちの声は“おっかぁ”と、母親を求めていたし、坂井のお屋敷では、ネコをとても可愛がる女の人の声が聞こえました」
話の途中から鉄瓶がシュンシュン言い出して、は言葉を続けながら、急須と湯呑みにお湯を注ぐ。
「今まで生きてきて、数えられないほどの声を聞いてきました」
湯呑みが温まったかそろりと触れてみる。
「…そう、ですか」
薬売りは特に興味を持つでも、好奇に思うでもないようだ。ただ、が茶を淹れる動作を眺めながら聞いている。
「でも、それだけです。薬売りさんのように、どうにか出来る訳ではないんです」
湯飲みの湯を捨てると、今度は急須に手を伸ばし、空になった湯呑みに注いでいく。
「いつも、聞こえてくるほうに足を向けて、その通り、この世のものでは無いものが本当に居るんですけど、でも…」
何もしてあげられない。
そう情けなさそうに言いながら、薬売りにお茶を出す。
「聞こえてくる方、ですか」
出されるがまま、薬売りは湯呑みを手に取り、軽く頭を下げてから茶を啜る。
「遠いと、かなり曖昧で、ただ何か聞こえる程度なんですけど」
苦笑いの口元を、湯のみで隠す。
聞こえるだけで、何も出来ないなんて、聞こえていないのと同じ。
それが酷く情けない。もし、その声のせいで苦しんでいる人が居るのであれば、尚更。
項垂れそうになるのを、人前だと堪える。
「そりゃあ…いい耳を、お持ちで」
「は?」
思いがけない言葉に、耳を疑う。
「いい耳を、お持ちで」
これまで生きてきて、自分の耳が“いい”などと思ったことは無い。人に話したことも無いから、言われたことも無い。
ただ漠然と、そういう力があって、何かしないといけないという衝動があるだけだ。
困惑するを他所に、薬売りは茶を啜る。
「…」
薬売りは、口から離した湯呑みを見つめて、何か思案している様子。そしてちらりとを見遣る。
「一つ、提案が、あるんですがね」
何だかあまり、いい予感はしない。
「…なんでしょう?」
薬売りは湯呑みを置いて、姿勢を正す―正さずとも背筋は伸びているが。
「一緒に旅を、しませんか」
NEXT
さて旅に誘われた…
2009/8/23