自分たちの子の耳が聞こえない。
その事実に、二人は愕然とした。
障害のある者は、町での暮らしは難しい。
百姓として農村で働くことになる者が大多数だ。
貧しい家では食い扶持を減らすために寺へ預けられたり、女であれば遊女として売られる事もあった。
「二人は、お前を手放したくはなかったようじゃ」
幸い三人で慎ましく暮らすくらいの稼ぎもあり、を手放す事はなかったが―。
それでもの将来を案じていた。
「二人は、それまでよりも増して、稲荷を訪れるようになった」
の耳を治してくれ。
それ以外には、何も望まないから。
特に貴市は、時間があると日に何度も来ては祈っていった。
お百度参りどころではない。
和花も日に二度は訪れた。朝晩、を抱えて長い階段を上り、時間の許す限り手を合わせた。
「二人には神頼みしか、残されとらんかった…」
必死に願う夫婦。
その姿は痛々しく、その願いを受け止める狐自身も、どうにかしてやりたいと思ってしまうほどだった。
けれど、人の願いをかなえるという事は、容易な事ではないのだ。
例えそれが、神の使いといわれる稲荷の狐であっても。
「…ある日の夜半過ぎ、貴市が一人でやってきた…」
“俺の命と引き換えてもいい、だから…!”
手には、包丁を持っていた。
「俺が居なくなれば、和花一人でを育てなくちゃいけなくなる。きっと暮らし向きは苦しくなる。でも、それでもきっと二人で支え合って生きていけるはずだ」
居た堪れず、狐は貴市に語りかけた。
「お主、自分が何を言ってるか分かっておるのか」
「!?」
貴市は辺りを見渡したが、そこには誰の姿も見えない。
「自分が贄になるということだぞ」
更に声が聞こえて、貴市は悟った。
これは、稲荷様の声なのだと。
「…分かっています。でも、もしそれでの耳が治るなら」
「必ずしも手放す事になると決まってはおらん」
「それでも、です」
貴市の意志は固かった。
狐は、ふぅと溜め息をついた。
「和花からは何も聞いてはおらぬか」
「…?」
「ここへ祈りを捧げ続ければ、やがて天から迎えが来る。そのとき、その命と引き換えに娘を治してやると、大分前に言い置いたのだが」
「そんな馬鹿なっ」
「もうどれくらい経ったか…」
「そ、そんな事は認めない! 和花が死んでどうする! 俺は和花との幸せを一番に願ってきたんだ!!」
「落ち着かぬか」
「お願いです、を助けてください!」
「おい…っ」
「…これまでこんなに祈ってきて、何もしてくれないなんて酷いじゃないか! 俺はどうなってもいいんだ、だからを…っ」
狐は、暗闇の中で鮮血を見た―。
は、見開いた目に涙を浮かべていた。
自分で自分を抱きしめて、震える身体を抑え込んでいる。
「奴は、ある意味取り付かれていたのかもしれん…。“幸せ”というものに。そうして、がそれとは程遠いところにいると、思い込んでおったのじゃ」
「耳が聞こえずとも、生きることはできますから、ね」
薬売りは静かに言った。
狐は頷いた。
生きていれば…。
「後から知った話じゃが、貴市の一番上の兄が借金を作って蒸発した直後で、貴市の所にまで取立てが来ていたらしい…」
まだ仕事場にやってくる程度だったが、そのうち家にも来るのは目に見えていた。
家に来れば和花やの身が危険に晒される。
最悪、が売られてしまうことを考えていたのかもしれない。
自分がいなくなる事で、兄と和花の繋がりはなくなる。
そうすれば、取立て屋たちは和花に借金の支払いを迫る事もないはずだと。
「今思うと、何と短絡的思考かとも思うが…それだけ焦っていたのかもしれんな」
「だからって…」
震える声で、が呟いた。
「、よく聞け」
狐は腰を浮かせて、に近付いた。
「お前の父親は、いつも欠かさずここへ来ていた。それはワシにとって、ありがたいことじゃ。信仰心が、ワシに力をくれるのじゃからな。…ワシは、お前の父親に報いなければいけないと思った」
項垂れるように、狐は目を伏せた。
「だから…お前に、音を与えた…」
はとうとう涙を流した。
大粒の涙が、床に落ちていく。
「私のせいで、父さんが…」
「そうではない。そう思ってはならん…あやつはあくまでも、和花とお前の幸せが、自分の幸せだと思っていたのじゃから」
その言葉で、は更に涙した。
「ただし、な…」
元々は母親の命と引き換えにするはずだった。
それが、父親の命に変わった。命は命でも、それは違うもの。
「お前には、その代償を払ってもらった」
「…え…?」
は弾かれたように顔を上げた。
「この世ならざるものの声が聞こえる、てぇこと、ですかね」
薬売りが、睨むような視線で狐を見る。
「その通りじゃ」
完全に条件を満たした訳ではなかった。
しかも、貴市はかなり一方的に自分の言い分を押し通した。
そのため、貴市の望みを完全に叶える事は出来なかったのだ。
その代償として、は聴力と共に別な力を与えられた。
「お前の父親には悪いが、それがこちら側の決まり事でな。なぁ、男」
薬売りに視線を向ける狐。
「条件が揃わねば、強大な力は使えんじゃろう」
「まぁ、そうですがね」
「それと同じじゃ」
狐はに視線を戻すと、涙に濡れたの手に鼻先で触れた。
「お前には、悪いことをした…」
母親を奪おうとし、その結果父親を奪った。
挙句、人とは違うものを与えた。
「人より険しい道を歩ませてしまったな」
この世ならざるものの声が聞こえるという事は、人の心に敏感になるということ。
見たくもないものを見、知りたくもないことを知ってしまう。
そんな運命を背負わせた。
は濡れたままの両手で、狐の顔を包み込んだ。
額に額を当てると、目を閉じて優しく微笑んだ。
「そんなこと、ない…」
「しかし、その力の為に、苦しんだじゃろう?」
確かに、負わなくてもいい傷を負ったこともある。
哀しすぎる人の生き死にを目の当たりにした。
けれど、この力がなければ、もっと人の死に鈍感だった。
知らない事だらけで、本当に小さな人間だったかもしれない。
幼い頃は力のことで悩んだときもあった。
けれど、旅に出ようと決めたのは、この力があったからだ。
もっと沢山の声を聞いて、何か出来たらと思った。
結果的に祈る事しか出来なかったけれど、それでも、その想いを受け止めるくらいのことは出来ていたはず。
今までに聞いてきた声は、受け止めてきた想いは、全て胸の中にある。
「この力がなかったら、私は私じゃなかった」
それに…
薬売りと出会う事も、こうして旅をすることもなかった。
「この力があって、良かった」
例えそれが、代償として負わされたものだったとしても。
は、黄金色の身体をそっと抱きしめた。
「ありがとう」
NEXT
2011/10/16