天気雨の夜

繻雫〜三の幕〜





 自分たちの子の耳が聞こえない。
 その事実に、二人は愕然とした。

 障害のある者は、町での暮らしは難しい。
 百姓として農村で働くことになる者が大多数だ。


 貧しい家では食い扶持を減らすために寺へ預けられたり、女であれば遊女として売られる事もあった。


「二人は、お前を手放したくはなかったようじゃ」


 幸い三人で慎ましく暮らすくらいの稼ぎもあり、を手放す事はなかったが―。
 それでもの将来を案じていた。


「二人は、それまでよりも増して、稲荷を訪れるようになった」


 の耳を治してくれ。
 それ以外には、何も望まないから。

 特に貴市は、時間があると日に何度も来ては祈っていった。
 お百度参りどころではない。
 和花も日に二度は訪れた。朝晩、を抱えて長い階段を上り、時間の許す限り手を合わせた。


「二人には神頼みしか、残されとらんかった…」


 必死に願う夫婦。
 その姿は痛々しく、その願いを受け止める狐自身も、どうにかしてやりたいと思ってしまうほどだった。
 けれど、人の願いをかなえるという事は、容易な事ではないのだ。
 例えそれが、神の使いといわれる稲荷の狐であっても。






「…ある日の夜半過ぎ、貴市が一人でやってきた…」





“俺の命と引き換えてもいい、だから…!”





 手には、包丁を持っていた。




「俺が居なくなれば、和花一人でを育てなくちゃいけなくなる。きっと暮らし向きは苦しくなる。でも、それでもきっと二人で支え合って生きていけるはずだ」


 居た堪れず、狐は貴市に語りかけた。


「お主、自分が何を言ってるか分かっておるのか」

「!?」

 貴市は辺りを見渡したが、そこには誰の姿も見えない。

「自分が贄になるということだぞ」

 更に声が聞こえて、貴市は悟った。
 これは、稲荷様の声なのだと。

「…分かっています。でも、もしそれでの耳が治るなら」

「必ずしも手放す事になると決まってはおらん」

「それでも、です」


 貴市の意志は固かった。
 狐は、ふぅと溜め息をついた。


「和花からは何も聞いてはおらぬか」

「…?」

「ここへ祈りを捧げ続ければ、やがて天から迎えが来る。そのとき、その命と引き換えに娘を治してやると、大分前に言い置いたのだが」

「そんな馬鹿なっ」

「もうどれくらい経ったか…」

「そ、そんな事は認めない! 和花が死んでどうする! 俺は和花との幸せを一番に願ってきたんだ!!」

「落ち着かぬか」

「お願いです、を助けてください!」

「おい…っ」

「…これまでこんなに祈ってきて、何もしてくれないなんて酷いじゃないか! 俺はどうなってもいいんだ、だからを…っ」





 狐は、暗闇の中で鮮血を見た―。







 は、見開いた目に涙を浮かべていた。
 自分で自分を抱きしめて、震える身体を抑え込んでいる。


「奴は、ある意味取り付かれていたのかもしれん…。“幸せ”というものに。そうして、がそれとは程遠いところにいると、思い込んでおったのじゃ」

「耳が聞こえずとも、生きることはできますから、ね」

 薬売りは静かに言った。
 狐は頷いた。
 生きていれば…。

「後から知った話じゃが、貴市の一番上の兄が借金を作って蒸発した直後で、貴市の所にまで取立てが来ていたらしい…」

 まだ仕事場にやってくる程度だったが、そのうち家にも来るのは目に見えていた。
 家に来れば和花やの身が危険に晒される。
 最悪、が売られてしまうことを考えていたのかもしれない。
 自分がいなくなる事で、兄と和花の繋がりはなくなる。
 そうすれば、取立て屋たちは和花に借金の支払いを迫る事もないはずだと。

「今思うと、何と短絡的思考かとも思うが…それだけ焦っていたのかもしれんな」

「だからって…」

 震える声で、が呟いた。

、よく聞け」

 狐は腰を浮かせて、に近付いた。

「お前の父親は、いつも欠かさずここへ来ていた。それはワシにとって、ありがたいことじゃ。信仰心が、ワシに力をくれるのじゃからな。…ワシは、お前の父親に報いなければいけないと思った」

 項垂れるように、狐は目を伏せた。

「だから…お前に、音を与えた…」

 はとうとう涙を流した。
 大粒の涙が、床に落ちていく。

「私のせいで、父さんが…」

「そうではない。そう思ってはならん…あやつはあくまでも、和花とお前の幸せが、自分の幸せだと思っていたのじゃから」

 その言葉で、は更に涙した。



「ただし、な…」

 元々は母親の命と引き換えにするはずだった。
 それが、父親の命に変わった。命は命でも、それは違うもの。

「お前には、その代償を払ってもらった」

「…え…?」

 は弾かれたように顔を上げた。

「この世ならざるものの声が聞こえる、てぇこと、ですかね」

 薬売りが、睨むような視線で狐を見る。

「その通りじゃ」

 完全に条件を満たした訳ではなかった。
 しかも、貴市はかなり一方的に自分の言い分を押し通した。
 そのため、貴市の望みを完全に叶える事は出来なかったのだ。
 その代償として、は聴力と共に別な力を与えられた。

「お前の父親には悪いが、それがこちら側の決まり事でな。なぁ、男」

 薬売りに視線を向ける狐。

「条件が揃わねば、強大な力は使えんじゃろう」

「まぁ、そうですがね」

「それと同じじゃ」

 狐はに視線を戻すと、涙に濡れたの手に鼻先で触れた。

「お前には、悪いことをした…」

 母親を奪おうとし、その結果父親を奪った。
 挙句、人とは違うものを与えた。

「人より険しい道を歩ませてしまったな」

 この世ならざるものの声が聞こえるという事は、人の心に敏感になるということ。
 見たくもないものを見、知りたくもないことを知ってしまう。
 そんな運命を背負わせた。



 は濡れたままの両手で、狐の顔を包み込んだ。
 額に額を当てると、目を閉じて優しく微笑んだ。

「そんなこと、ない…」


「しかし、その力の為に、苦しんだじゃろう?」

 確かに、負わなくてもいい傷を負ったこともある。
 哀しすぎる人の生き死にを目の当たりにした。

 けれど、この力がなければ、もっと人の死に鈍感だった。
 知らない事だらけで、本当に小さな人間だったかもしれない。


 幼い頃は力のことで悩んだときもあった。
 けれど、旅に出ようと決めたのは、この力があったからだ。
 もっと沢山の声を聞いて、何か出来たらと思った。
 結果的に祈る事しか出来なかったけれど、それでも、その想いを受け止めるくらいのことは出来ていたはず。
 今までに聞いてきた声は、受け止めてきた想いは、全て胸の中にある。

「この力がなかったら、私は私じゃなかった」



 それに…


 薬売りと出会う事も、こうして旅をすることもなかった。


「この力があって、良かった」


 例えそれが、代償として負わされたものだったとしても。


 は、黄金色の身体をそっと抱きしめた。




「ありがとう」

















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2011/10/16