天気雨の夜

五の幕〜





 その町に宿を取って四日目の夜だった。
 薬売りは、の部屋を訪ねた。

 けれど、部屋にたどり着く前に、部屋から出てきたにちょうど行き当たった。

さん…」
「…薬売りさん」

 少し驚いた顔で、は薬売りを見た。

「こんな時分に、何処へ」
「ちょっとお社に」

 薄暗い廊下で、二人の距離が縮まる事はない。

「では、俺も」
「いえ、一人で大丈夫です。この町はとても治安がいいみたいなので」

 薬売りの言葉を遮るように、がまくし立てた。
 言葉にも声にも、表情にもぎこちなさを感じる。

「そう、ですか。気をつけて」
「はい」

 そう言うと、は意を決したように、薬売りの隣をすり抜けて行った。

「あぁ」

 通り過ぎたの背中に、薬売りが声を掛ける。
 は、思わず立ち止まった。

「明日の朝、卯の刻には経ちます」
「…分かりました」


 そのまま会話は途切れた。
 けれど、どちらもその場を去ろうとはせず、相手の出方を窺っているように見えた。
 しん、と沈黙が支配する。
 下の階から、呂律の回らない大きな声がする。
 上の階からは、人が行き交う足音が響いてくる。

「あの」

 沈黙を破ったのは、だった。

「実は…繻雫に言われたんです」

 切羽詰ったような声に、薬売りは首を傾げる。

「何を、ですか」

「力を取り去る事も出来る、と」

 薬売りは、僅かに目を見開いた。
 あのときの狐の話はこれだったのだと、薬売りは理解した。
 だからあれ以降、はその答えを出すために部屋に篭っていたのだと。

「今からその答えを伝えてきます」

 そう言って、は薬売りに背を向けた。
 その背中に、薬売りは何の言葉も掛けることが出来なかった―。










 長い階段の、その一段一段を踏みしめながら、は真っ直ぐに上っていた。
 この階段を、両親が毎日、それも日に何度も上っていたのかと思うと、何故かとても懐かしい気がする。
 自分の耳が治るようにと、何度も何度もこの階段を往復したのだ。
 そう思うと、胸がいっぱいになった。

 階段を上りきり、鳥居の前で深呼吸をする。
 この大きな鳥居も、数え切れないくらい潜ったのだろう。
 見上げると、朱塗りの鳥居の向こうに、月が輝いていた。

 静かだ。

 父が死んだ夜も、静かだっただろうか。
 そんなことを頭の隅で考えた。

 ゆっくりと社の前まで来ると、唐突に扉が開いた。
 そこから黄色い光がふわりと出てきて、の正面に降り立った。
 そして、その光は狐に姿を変えた。


「来たな」


 こくりと頷くの目は、決意に満ちていた。


「で、どうするんじゃ?」


 子供のような声が発せられる。
 よく考えてみれば、普通の狐よりも少し大きな狐が、子供の声で仙人のような話し方をする。酷く可笑しな話だ。
 そんなことを考えている場合ではないのに、はまた頭の隅で思った。

 それだけ、落ち着いているのかもしれない。

「この前言った通りよ」
「…」
「この力がなかったら、私は私じゃなかった」
「しかし」
「この力がなかったら、知らなかった事も沢山あるし、感じることのなかった気持ちもある。この力があってこそ、人の心の弱さも、想いの強さも知ることが出来た」

 は、空を見上げた。

「母が亡くなってから一人旅を始めたの」

 母の死に勘付いていた狐も、がその後ずっと一人旅をしてきた事は知らなかったのだろう。
 少しだけ驚いた顔をしていた。

「一人でそのまま暮らしていけなくもなかった。長屋の皆がいたから…。でも一人じゃなかったけど、どうしても独りだった」

 声が聞こえる事で、引け目を感じていなかったと言えば、それは嘘になる。
 けれど、誰にもそんな事は言えなかった。
 周りの人達は優しくて温かくて、けれどそれが余計にの孤独を際立たせた。

 そのうち、ここから離れようと思うようになった。
 母親との思い出が残る部屋に一人で住むのは、寂しすぎる。
 父親を亡くしたときの母親と同じだ。

 更に、部屋に帰るとずっと一人で、以前よりも声を聞くことも多くなった。
 今までは、母親とのおしゃべりで気付かないくらい小さな声が、聞こえるようになったのだ。


「だったらいっそ、この力で沢山のこの世ならざるものの声を聞いてあげようと思って…」


 それで旅を始めた。


「お前は、本当に…」
 狐はやれやれと首を振った。
「その声の主達には、心の平安を祈ってあげる事しか出来なかったけど…でも」
「でも?」


 は、今度は顔を戻すと何処か遠くを見た。


「薬売りさんと出会ったの」


 それはとても革命的だった。
 声の主であるモノノ怪を斬る。
 それはには出来ない事だ。
 薬売りのことも、その力の事も、何も分からなかったけれど、どうしようもなく気になった。


「あの男か…。あやつ、得体が知れん」
「うん。だけど」


 はふっと微笑んだ。


「私は決めたの。薬売りさんの傍に居るって」


「お前…」


「私の力が薬売りさんの助けになるなら、要らないって言われるまで薬売りさんの傍に居る。…薬売りさんがモノノ怪を斬るなら、そのモノノ怪の想いは私が受け止める」


 そう、決めたのだ。


「思い違いも甚だしいかもしれないけど、私の力はこの人の為にあるんだって思ったの」


 確かに、と狐は思った。
 条件がなければ抜けない剣。
 その条件を揃えるには、かなりの労力を要する。
 けれど、の力があれば、時間も手間も抑えられるだろう。
 意図せず自分が与えた力がを苦しめていると思っていたが、強ちそうでもなかったと、胸の奥の痞えが取れた気がした。


「あの男と旅をする理由は、それだけではないじゃろう」
「…」


 は苦笑いで頷いた。


「女子の幸せ、か」
「…貴方や父さん母さんが思う女子の幸せを手にすることは出来ないと思う」
「あやつが相手じゃあ、そうじゃろうな」
「でもね、繻雫…」


 なんじゃ、と首を上げた狐が見たのは、月明かりにきらきらと輝く、今まで見た事のないくらい美しい娘だった。



「私、薬売りさんが好きなの。その気持ちがあるだけで、幸せなの」



 恥ずかしそうに微笑んで、は目を伏せた。



「だから、この力は返せない」

















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なかなか話が進みませんねぇ…



2011/10/30