卯の刻までは、まだ随分と時間がある。
けれど、宿の門に向かう薬売りの姿があった。
いつもの青い着物、いつもの浅紫の手拭、そしていつもの行李。
変わったことがあるとすれば、いつも傍らに居るはずの娘がいないことだ。
薄く霧の掛かる中、門の手前で薬売りは立ち止まった。
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。
胸に入り込んでくる空気は、いくらか冷たい。
待たずとも、いいだろう。
目を開けた薬売りは、門をくぐると振り返ることなく歩き始めた。
答えを問うことが出来なかった。
いや、聞くことが出来たとして、どうしろというのか。
決めるのはあの娘であって、自分ではない。
自分が何を言っても、あの娘の意志は変わらない。
そんなことは分かっている。
歩くたびに下駄が砂を鳴らす。
規則的ではあるが、いつもよりいくらか早い。
あの力のために、苦しんでいる事も、気負っている事も知っていた。
モノノ怪の想いを一手に引き受けて、それを大切に抱えている。
何一つ取りこぼすことなく受け入れて、それでも崩れることなく次のモノノ怪と向き合う。
辛くないわけがない。心も、身体も。
これ以上、苦しめたくはない。
それに―。
「…?」
ふと、何かが聞こえた気がした。
規則的に歩く自分の足音の他に、遠くの方から何かが近付いてくる音がする。
とても早い。
走っている。
勢いよく地面を蹴る音が、徐々に近付いてきた。
「薬売りさん…!」
呼ばれて、足を止めた。
聞きなれた声。
足音が止まった。
荒い呼吸音が聞こえてくる。
「見つかって、しまいましたか」
小さく呟いて、薬売りは嗤った。
「酷いです、どうして置いていくんですか!?」
いつものような、言い合いの時の声ではない。
本当に、怒っている。
「どうしてって、そりゃあ」
「そりゃあ?」
「来ないと、思ったから、ですよ。…力を取り去って、ご両親の居たこの地に、残ると」
「!!」
「その方が…」
「幸せだとか、楽だとか、言わないで下さい」
「言いますよ。俺が貴女を、無理に引き込んでしまったんですから」
「違います、そうしたのは私の意志です!」
今にも泣き出しそうな声。
薬売りは、振り向きたい気持ちを抑える。
「力は、返しませんでした」
間を置いて、は言った。
「…」
薬売りは、何も答えない。
「…傍に、いたいんです」
震える声。
「薬売りさんの傍にいたいんです!」
時が、止まったような気がした―。
「…この力は、薬売りさんの為にあるわけでも、モノノ怪やこの世ならざるものの為にあるんじゃない。…この力は私自身の為にあるんです」
何を言っているのかと、薬売りは思った。
その力で救われたものが居るのは明白なのだ。
「この力は、私自身の為にあるんです。私が、薬売りさんの傍に居られるように」
「何を、言っているんだか…」
「私…っ」
思いつめたような声が、途切れた。
そうして、暫くの間沈黙が続いた。
薬売りは、その先は無いのだと、足を踏み出そうとした。
けれど、静かに耳に流れ込んできた言葉が、それをさせなかった。
「私、好きなんです。薬売りさんのこと…」
背を向けたたままで良かったと、薬売りは思った。
こんなにも驚いたことは、今までなかった。
「だから、傍にいたい…」
消え入りそうな頼りない声が、懇願しているよう。
このまま背を向けていては、の方が逃げてしまうような気がした。
薬売りは、ゆっくりと振り返った。
は、目を真っ赤に潤ませて薬売りを見つめていた。
「いいんです。薬売りさんが私を好きじゃなくても、他に好い人が居ても、遊郭で誰かを買っていても。ただモノノ怪を斬るために、私を傍に置いてくれているだけだとしても」
自分が勝手に好きだから、と。
は言い切ると視線を地面に落とした。
今にも泣き出しそうで、けれど涙を堪えている。
泣き落としは、嫌なのだろう。
薬売りが一歩近付くと、はびくりと肩を震わせた。
「近付くな、と」
「ち、違います。ただ…怖くて」
薬売りはもう一歩、近付いた。
それでもまだ、手を伸ばしても届かない距離。
「俺に好い人がいる、というのは、何処で」
「…いえ、私が勝手に…」
「俺が遊郭で遊んでいる、というのは」
「…それも、勝手に」
「俺の何が、そう思わせました」
「別にそんな…。ただ…」
「ただ」
「その…、菊さんと一緒にいた所を」
「何の、ことで」
「だって、あのお屋敷で薬売りさんの部屋を探そうと思って、でも通りかかった部屋で薬売りさんと菊さんが…」
薬売りは、僅かに険しい顔をした。
“ほんの少し不安を煽っただけだから”。
菊の言葉が頭の中で甦った。
「モノノ怪に、何か、見せられましたね」
「え?」
「俺は部屋に案内されてすぐ、部屋を出て、屋敷の中を探っていたんですよ」
一回りしてきて、行き着いた土間でを見つけた。
「様子が可笑しかったのは、そのせい、ですか」
「…」
無言が、肯定を意味した。
「では…」
薬売りは更に一歩、距離を詰めた。
「触れても、いいですか」
「え?」
は間近に迫った薬売りを、思わず見上げた。
「俺は、あのモノノ怪には、触れていませんから」
「…っ!?」
返事を待たずに、薬売りはに手を伸ばした。
思わず肩を竦めただったが、薬売りの手は優しくの頬に触れていた。
「“あの人に触れた手で、私に触らないで下さい”。貴女が、言ったんですよ。俺は、それを守っていた」
だからあの時、がモノノ怪の意識に飲まれてしまいそうだった時、伸ばした手を引き戻した。
空狐の話を聞いている時、動揺していたに、どれほど手を差し伸べたかったことか。
「触れても、いいですか」
「もう触ってるじゃないですか」
「ちゃんと、許可を得なければ、ね」
悪戯に薬売りが笑う。
「だったら、その前に聞いてもいいですか」
「何ですかね」
「…私を一緒に連れて行ってくれませんか」
不安に揺れるの瞳。
「それに答えるためには、“触れていい”と、言ってもらわなけりゃあ」
そんなの瞳を覗き込んで、薬売りは目を細めた。
怪訝そうにして、はしばし考えた。
「…いいです…」
言ってから、は少しばかり身構えた。
「…な…っ」
頬に触れていた手が離れた。
かと思うと、薬売りはを抱きしめた。
両腕で優しく、けれどしっかりと。
「くすりうり、さん…?」
突然の事に戸惑う。
驚いた顔をして、薬売りの肩越しの景色の何処か遠くを見ている。
否。見ているようで、何も見えてはいない。
「これが、答え、ですよ」
すぐ傍で聞こえる薬売りの声。
「こたえ…」
「そう。答え、です」
薬売りは両腕の力を強めた。
「触れたくて、どうしようもなくて…遠ざける事しか、出来なかった」
「…私に…?」
「他に、誰がいるんで」
「…でも…」
「俺が、そんなことを考えていたなんて、知らないでしょう」
「…だって、一言も」
「言える訳がない。俺を、痛いほどの尊敬の眼差しで見ている、貴女になど」
尊敬する人が、自分をそんな目で見ていると知ったら、幻滅する。
そう思い込んでいた。
「尊敬だけじゃ…ないんです。…私はずっと…っ」
言葉の途中で、堪えていた涙が溢れ出した。
は、しがみつくように両手で薬売りの着物を握り締める。
自分の胸に顔を埋めるを優しく包んで、薬売りも目を伏せた。
「共に、来てくれますか」
「はい…!」
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2011/11/13