天気雨の夜


右近左近
〜序の幕〜






 薬売りとが繻雫と別れて、いくらか日が経った。
 二人は、海沿いの街道を選んで旅を続けていた。
 眩しさを顰めた太陽は、それでも海面を煌かせている。
 それを遠目に歩いていると、は少しばかりの違和感を覚えた。
 そうして道を逸れて、林に入ったのだ。
 林の中を、は木々を眺めながら歩く。
 は、小さな季節の移り変わりを見つけるのが好きらしい。
 薬売りは、の言葉や行動で、それを共に感じる事が出来た。
 それは、以前には気にしていなかった事だ。

 林を抜けると、開けた土地の先の方にぽつんと一軒の屋敷が建っていた。
 その更に先には、松林が見える。
 そして察するにその奥は断崖、下は海だ。

「妙な所に、あるもんだ」

 薬売りはぼやくと、そちらに歩を進め始めた。
「…?」
 けれどは、首を傾げてそれに続こうとはしなかった。
さん…?」
 が立ち止まり、薬売りがそれを振り返る。
 一体何度目のことだろうか。
「犬の、鳴き声?」
 屋敷の方に視線を向けつつ、はそう呟いた。
「犬、ですか」
「遠吠えのような、そんな感じです」
「ほう…」
 薬売りは再び口角を上げて、その屋敷に喜々とした視線を向けた。



「ちょいと、お聞きしたいんですが、ね」

 薬売りは屋敷の門番に声を掛けた。
 門番は怪訝そうな顔をして、二人を舐めるように見る。
「何用だ」
「この辺に、宿は、ありませんか」
「この辺りは殿山家の別邸の敷地だ。市中へは一里ばかり行かないとダメだな」
「そう、ですか」
 それほど残念そうではない声で言って、薬売りは大分高度の下がった太陽を見た。
「どうしましょう…。あと一里も歩かなくてはいけないんですか?」
 薬売りの後ろに隠れるように立っていたが、弱弱しい声で聞いた。
 薬売りの左の袖を掴んで、不安そうな表情をする。
「…仕方ありませんよ。ここは、お武家様のお屋敷、ですからね」
 気遣うようにの背中に腕を回す薬売り。
「…」
「もう少し、ですから」
「はい」
 今にも倒れそうなを、薬売りが支えて来た道を戻ろうとした。
「ち、ちょっと待て」
 見兼ねた門番が、二人を呼び止める。
「少し待っていろ。上の者に掛け合ってみよう」
「そりゃあ、ありがたい」
 薬売りは、微かに目を細めた。
「本当に、ありがとうございます」
 力ない笑みを浮かべて、も礼を言う。
 二人の言葉を受け取って、門番は屋敷の中へと姿を消していった。

「貴女も、いい性格を、していますね」
「薬売りさんに言われたくないです」
 薬売りはから手を離し、も背筋を伸ばしていつもの通りに戻る。
「俺は、着く頃には日が暮れちまうと、言おうとしたんですがね」
「それよりは、具合の悪そうな娘がいる方が断りにくいじゃないですか」
 にこり、と笑うに、薬売りも自然と口角が上がってしまう。
「全く貴女には、敵いそうにありませんよ」
 それで結構です、とは得意げにする。

“キャンキャン、キャン!!”

「…?」
 そのの表情が曇る。
 急に、けたたましい鳴き声が聞こえてきた―気がした。
「…何か、様子が…」
「はい、急に犬の鳴き声が激しくなって」
 薬売りも空気の変化に気付いたのか、屋敷の中の方に目をやる。
 様子を窺っていると、門番が戻ってきた。
「奥様のお許しが出た。泊まっていくといい」
 門番の返事を聞いて、薬売りとはニヤリと効果音でも付きそうな顔で視線を合わせた。
「具合が悪い所すまないが、奥様が会いたがっている。中の者が案内するから、奥で待っていろ」
「ありがたく」
「ありがとうございます」




 二人は案内されるまま屋敷の奥へと進んでいく。
 海が近いせいか、微かに夏の気配が残っている。
 中庭に面した部屋には未だ簾が掛けられ、風が通るようしてある。
 よく通る風を感じては、ふと中庭に視線を移した。
「…?」
 視界の端で、何かが動いたように見えた。
 木と塀が濃い陰を作って、暗くてその何かを見つけることは出来なかった。
「夜には十四郎様も耀介様も戻られるだろう。奥様にお会いした後は、客室へ案内する故」
「そのお二人が…」
「あぁ、殿山家当主と次期当主だ」
 種田と名乗った三十路ほどの家臣は、二人を案内する道すがら、殿山家の説明を始めた。
「耀介様は昨年めでたく婚儀を終えられましてな。それはそれはお美しい方で」
「ほぅ…」
 薬売りが口角を上げたことに、は僅かに眉根を寄せる。
「しかし、この所篭りがちなのですよ。耀介様もお忙しい身分故…」
 苦笑いをした所で、種田は言葉を切った。
 そうして角を曲がると、障子の閉められた部屋に向かって声をかけた。
「藍姫様、旅の者たちをお連れしました」
「お通ししてください。貴方は…下がって」
 障子の向こうからは、まだ幼さの残る高い声が聞こえた。
「しかし、姫様」
「私がいいと言っているんです」
「…かしこまりました…」
 そうして障子越しに一礼すると、種田は去って行った。
「失礼、しますよ」
「どうぞ」
 薬売りがスラリと障子を開くと、こちらを見据える若い娘が座っていた。
 伸びた背筋とはっきりとした表情。凛としていると言ってもいいくらいの娘が、そこには居た。
 さっき種田は“篭りがち”と言っていたはずだ。
 はそれを不思議に思った。
「どうぞ、お入りください」
 僅かに口元を緩めて、娘は二人を招きいれた。
「私は藍と申します。あなた方は?」
「ただの、薬売り、ですよ」
「こういう人なんです、気にしないで下さい。私はと申します」
 相手が変に思わないよう、補足するのが最近のの役目の一つだ。
「身体の具合が良くないというのは、貴女ですか?」
「はい…。でも泊めていただけると聞いて、安心したせいか大分楽になりました」
 は少し心苦しさを感じながら答えた。
「それはよかった。…何故旅を?」
「いえ。…薬を少々、商っておりまして」
「まぁ、面白そう」
 微笑んだ藍が、にはとても綺麗に見えた。




「ところで、何故、種田様は貴女のことを、“姫様”と呼ぶんで」
 一通り薬を見せたところで、薬売りはそう藍に聞いた。
「…それは…」
 液体の入った小瓶を手にしたまま、藍は動きを止めた。
 漆黒の瞳が、揺らいだように見えた。
「気を遣っているんです。実家にいた頃、そう呼ばれていたから」
「嫁いできたのでしょう」
「そうですね」
 困ったように笑って、藍は小瓶を薬売りに返した。
「藍姫様…?」
 そんな藍の様子を見て、は何故だか不安になった。
「そうだ。ねぇ、さん、今日は私の部屋に泊まって行きませんか? 色々お話をお聞きしたいわ」
「え、でも…」
 ただの通りすがりの旅の女がそんな事をしてはいけないだろう。
「大丈夫、家の者には私から話します」


“いつでも覚悟は、出来ているから”


「え…?」
 突然頭に届いた声は、明らかに目の前にいる藍のものだった。
 不思議な顔をするを、小首を傾げてやはり不思議そうな顔で見返す藍。
 は戸惑いながらも、この姫の話を聞かなければと思った。
 は、薬売りに意見を求める。
「本人がいいと言っているんだから、いいんじゃあ、ないですか」
 の意を汲み取ったのか、薬売りは頷いた。
「じゃあ、私でよければ…」


 そうしてその夜、は藍の寝室に招かれた。
 もちろん、種田を始め、屋敷の者達はいい顔をしなかった。
 何処の誰かも分からない旅の娘を姫の部屋に入れるなど、どう考えても非常識だ。
 けれど、屋敷の誰よりも上の立場である藍の言葉に、誰も異を唱える事は出来なかった。

「よかった。退屈で仕方なかったの」

 髪を下ろした藍が明るい顔でに微笑んだ。
 簡素な文台と床の間の花しかない十畳ほどの部屋が、藍の寝室。
 そこに二組の布団を延べて、二人は並んで座っている。
 数刻前に焚いていた香の残り香のせいか、とても心地よく感じる。
 そんな空気の中で、藍が静かに息を吸い込むのが分かった。

「ずっとこの屋敷の中にしかいられなくて、息が詰まりそうだったわ」

「あの…」

 何だか、藍の雰囲気が変わった。

「あ、ごめんなさい」

 戸惑うに気付いて、藍は恥ずかしそうにする。

「屋敷の者の前では、気を張ってるから…」
 他家からそこの家に入るということが、どれほど気を遣うことか、には想像もつかない。
「でも、種田様や他の人達も、とてもいい人じゃないですか」
「…そう見えたなら、そうなのかもしれないわね」
「え…?」
 意味深な藍の言葉が、胸に痞える。
「ここは別邸だって、知ってる?」
「はい」
「どうして正妻の私が、別邸にいるか不思議に思わない?」
「え…っと」
 言われてみればそうだ。
 藍が、自分が正妻だと言うのが嘘でなければ、何故わざわざ正妻が別邸住まいなのか。
「居ても居なくても、同じなの」
「そんな」
「だって、政略結婚だもの」
 そう言って藍は、どこか遠くを見るような目をした。
「…」
 には、どんな言葉をかけていいのか分からなかった。
 身寄りのない自分とは、まるで縁のない言葉。
「耀介様は、私を何とも思っていないの」
「そんなことっ」
「貴女とお連れの方のように、お互いを優しい眼差しで見つめるなんてこと、今までになかったわ」
「…そんなこと…!」
 顔が熱くなっていくのを感じる。
 そんなを見て、藍は嬉しそうに微笑んだ。
 それから不意に、藍は片手を畳みに付いてとの距離を縮めると、小さく呟いた。


「…本当は、他に慕っていた人がいたの…」

















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2012/1/22