ちらりと、隣で寝息を立てる藍を盗み見る。
一頻り話をして、床に就いたのは深夜だった。
けれどは眠れずにいた。
ずっと、声が聞こえているのだ。
犬の鳴き声と共に、遠くの方で低い声がする。
何を言っているのか聞き取れず、耳を澄ましている。
他にも、眠れない理由はあった。
藍の言葉が、頭から離れない。
他に慕っていた人が居た―。
藍はそのすぐ後に、見ず知らずの人にこんな話、と口を噤んで、それ以上のことは話さなかった。
武家の娘ならば、当たり前の事だろう。
お家の為に誰かに嫁いでいく。好きでもない人、一度も会った事のない人の所へ嫁に出されるのは、至極普通の事だ。
穏やかに眠る藍の横顔を、は哀しそうな顔で見つめた。
自分にそんなこと、出来るわけがない。
大切な人と共に居る喜びを知ってしまった自分には―。
“…姫…!”
「―っ!?」
唐突に聞こえたその声に、はガバリと起き上がる。
声に意識を集中させて、辺りの様子を窺う。
「曲者め!」
「侵入者だ! 捕まえろ!!」
男達の騒ぐ声が聞こえて、は布団から抜け出た。
障子を僅かに滑らせて、その隙間から外を覗く。
「早く仕留めろ!」
「きゃあぁっ」
「そっちへ行ったぞ!!」
屋敷の人々が次々に声を上げていく。
大きな物音が響いて、それが次第に近付いてくるように感じる。
「どうしたの…?」
が様子を窺っていると、背後から声を掛けられた。
振り返ると、起き抜けとは思えないほど神妙な顔をした藍が立っていた。
「曲者らしいです。とりあえず私達はここに居た方がいいと思います」
「…そうね…」
障子を閉めると、二人は部屋の隅に身を縮めた。
徐々に近付いてくるいくつかの足音。
それがこの家人のものなのか、それとも侵入者のものなのか、知る術もない。
争いの場になっている訳でもないのに、空気がピリ、と張り詰める。
やがて一つの影が部屋の前に現れた。
二人は更に縮こまり、息を潜めた。
「さん」
張り詰めた空気を震わせたのは、聞きなれた声だった。
「薬売りさんっ」
は、全身から力が抜けていくのを感じた。
静かに障子を開けて入ってきたのは、退魔の剣を手にした薬売りだった。
「何かあったんですか?」
「さぁて、俺にもとんと…」
薬売りは二人を庇うように障子の方へ向き直ると、緩やかに剣を構えた。
それからすぐに、幾つかの足音が部屋の前で止まった。
三つの影が、障子に映る。
「姫様を守れ!」
「一歩たりとも入らせるな!!」
どうやら、曲者は夜陰に乗じ、中庭の木々を隠れ蓑にして、この部屋を目指しているらしい。
「どうして姫様が?」
「…」
の問いに、藍は答えなかった。
は、そんな藍に若干の違和感を覚えた。
怯えると言うよりは、何かを覚悟しているような表情だった。
それが、とても気にかかった。
「ぐぁっ」
影が一つ、前のめりに倒れた。
「よくも! …うぐっ」
もう一つ、薙ぎ払われるように右に飛んだ。
「うあぁぁ」
最後の一つは、障子を破って部屋の畳に打ち付けられた。
姿を現したのは人だった。
黒装束を身に纏い、手に短刀を握って、ゆっくりと部屋に足を踏み入れてきた。
「どちらさん、でしょうか、ね」
薬売りがその人物を見据えて、低く問う。
「…」
答えが返ってこないことくらい、予想している。
その代わりに、黒装束は身を低くして攻撃態勢に入ろうとした。
“キャン、キャン!!”
突然、の耳に犬の鳴き声が突き刺さった。
すると中庭の方から、二匹の犬が部屋に飛び込んできた。
暗くて良くは見えないが、どちらかと言うと小柄で、二匹とも姿かたちが良く似ている。
その二匹は黒装束目掛けて飛び掛り、容赦なく噛み付いた。
「なっ!?」
思わず声を上げた黒装束。
噛み付いて離れない二匹を、どうにか引き剥がそうとじたばたする。
そうしているうちに、偶然にも黒装束の拳が片方の犬の脇腹に入った。
“キャン”
その犬は、畳に爪を立ててその衝撃を押さえ込んだ。そしてそのまま黒装束を睨む。
もう一匹もそれに合わせて攻撃を止め、黒装束と距離を取った。
そのまま威嚇するように低く唸って、小康状態に入る。
「くそっ」
痺れを切らした黒装束は、やがて身を翻して部屋から逃げて行った。
暫くそちらを睨んでいた二匹の犬は、黒装束の気配が完全になくなると、自分達も早々に去って行った。
「まったく、何だってぇ言うんでしょうね」
構えを解いた薬売りが、そうぼやいた。
二人を―特にを、だろうが―守るために来たのに、完全に蚊帳の外だった。
侵入者は犬達が追い払ってしまったのだから。
「今の曲者、姫様を狙っていたんでしょうか」
が藍の方を見ると、藍は放心したように中庭の方を見つめたまま固まっていた。
「家人たちが、姫を守れと、言っていましたからね」
薬売りもそれに気付き、藍の様子を窺う。
「それに、あの二匹の犬って…。あっ」
藍が力なくその場にくず折れて、は慌ててそれを受け止めた。
酷く顔色が悪い。
「姫様!?」
軽く揺すっても、何の反応もない。
やがて一筋の涙が藍の頬を伝った。
「莢矢…、菖矢…」
藍はうわ言のようにそう呟いた。
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2012/1/29