天気雨の夜


右近左近
〜二の幕〜





 ちらりと、隣で寝息を立てる藍を盗み見る。
 一頻り話をして、床に就いたのは深夜だった。
 けれどは眠れずにいた。
 ずっと、声が聞こえているのだ。
 犬の鳴き声と共に、遠くの方で低い声がする。
 何を言っているのか聞き取れず、耳を澄ましている。

 他にも、眠れない理由はあった。

 藍の言葉が、頭から離れない。
 他に慕っていた人が居た―。

 藍はそのすぐ後に、見ず知らずの人にこんな話、と口を噤んで、それ以上のことは話さなかった。
 武家の娘ならば、当たり前の事だろう。
 お家の為に誰かに嫁いでいく。好きでもない人、一度も会った事のない人の所へ嫁に出されるのは、至極普通の事だ。
 穏やかに眠る藍の横顔を、は哀しそうな顔で見つめた。
 自分にそんなこと、出来るわけがない。
 大切な人と共に居る喜びを知ってしまった自分には―。


“…姫…!”


「―っ!?」


 唐突に聞こえたその声に、はガバリと起き上がる。
 声に意識を集中させて、辺りの様子を窺う。


「曲者め!」

「侵入者だ! 捕まえろ!!」


 男達の騒ぐ声が聞こえて、は布団から抜け出た。
 障子を僅かに滑らせて、その隙間から外を覗く。

「早く仕留めろ!」
「きゃあぁっ」
「そっちへ行ったぞ!!」

 屋敷の人々が次々に声を上げていく。
 大きな物音が響いて、それが次第に近付いてくるように感じる。

「どうしたの…?」

 が様子を窺っていると、背後から声を掛けられた。
 振り返ると、起き抜けとは思えないほど神妙な顔をした藍が立っていた。

「曲者らしいです。とりあえず私達はここに居た方がいいと思います」
「…そうね…」

 障子を閉めると、二人は部屋の隅に身を縮めた。
 徐々に近付いてくるいくつかの足音。
 それがこの家人のものなのか、それとも侵入者のものなのか、知る術もない。
 争いの場になっている訳でもないのに、空気がピリ、と張り詰める。
 やがて一つの影が部屋の前に現れた。
 二人は更に縮こまり、息を潜めた。

さん」

 張り詰めた空気を震わせたのは、聞きなれた声だった。

「薬売りさんっ」

 は、全身から力が抜けていくのを感じた。
 静かに障子を開けて入ってきたのは、退魔の剣を手にした薬売りだった。

「何かあったんですか?」
「さぁて、俺にもとんと…」

 薬売りは二人を庇うように障子の方へ向き直ると、緩やかに剣を構えた。

 それからすぐに、幾つかの足音が部屋の前で止まった。
 三つの影が、障子に映る。

「姫様を守れ!」
「一歩たりとも入らせるな!!」

 どうやら、曲者は夜陰に乗じ、中庭の木々を隠れ蓑にして、この部屋を目指しているらしい。

「どうして姫様が?」
「…」

 の問いに、藍は答えなかった。
 は、そんな藍に若干の違和感を覚えた。
 怯えると言うよりは、何かを覚悟しているような表情だった。
 それが、とても気にかかった。


「ぐぁっ」

 影が一つ、前のめりに倒れた。

「よくも! …うぐっ」

 もう一つ、薙ぎ払われるように右に飛んだ。

「うあぁぁ」

 最後の一つは、障子を破って部屋の畳に打ち付けられた。


 姿を現したのは人だった。
 黒装束を身に纏い、手に短刀を握って、ゆっくりと部屋に足を踏み入れてきた。


「どちらさん、でしょうか、ね」


 薬売りがその人物を見据えて、低く問う。

「…」


 答えが返ってこないことくらい、予想している。
 その代わりに、黒装束は身を低くして攻撃態勢に入ろうとした。


“キャン、キャン!!”


 突然、の耳に犬の鳴き声が突き刺さった。
 すると中庭の方から、二匹の犬が部屋に飛び込んできた。
 暗くて良くは見えないが、どちらかと言うと小柄で、二匹とも姿かたちが良く似ている。
 その二匹は黒装束目掛けて飛び掛り、容赦なく噛み付いた。

「なっ!?」

 思わず声を上げた黒装束。
 噛み付いて離れない二匹を、どうにか引き剥がそうとじたばたする。
 そうしているうちに、偶然にも黒装束の拳が片方の犬の脇腹に入った。
“キャン”
 その犬は、畳に爪を立ててその衝撃を押さえ込んだ。そしてそのまま黒装束を睨む。
 もう一匹もそれに合わせて攻撃を止め、黒装束と距離を取った。
 そのまま威嚇するように低く唸って、小康状態に入る。

「くそっ」

 痺れを切らした黒装束は、やがて身を翻して部屋から逃げて行った。


 暫くそちらを睨んでいた二匹の犬は、黒装束の気配が完全になくなると、自分達も早々に去って行った。




「まったく、何だってぇ言うんでしょうね」
 構えを解いた薬売りが、そうぼやいた。
 二人を―特にを、だろうが―守るために来たのに、完全に蚊帳の外だった。
 侵入者は犬達が追い払ってしまったのだから。
「今の曲者、姫様を狙っていたんでしょうか」
 が藍の方を見ると、藍は放心したように中庭の方を見つめたまま固まっていた。
「家人たちが、姫を守れと、言っていましたからね」
 薬売りもそれに気付き、藍の様子を窺う。
「それに、あの二匹の犬って…。あっ」
 藍が力なくその場にくず折れて、は慌ててそれを受け止めた。
 酷く顔色が悪い。
「姫様!?」
 軽く揺すっても、何の反応もない。
 やがて一筋の涙が藍の頬を伝った。




「莢矢…、菖矢…」




 藍はうわ言のようにそう呟いた。


















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2012/1/29