天気雨の夜


右近左近
〜三の幕〜





「絶対に深月の仕業だ!!」

 翌朝、帰宅したこの屋敷の主、殿山十四郎はそう声を荒げた。
 夜には戻るだろうと言う種田の予想を裏切って、殿山親子は外で宿を取ったようだった。
 十四郎は白髪混じりの髷だが、その眼はギラギラと未だ衰えぬ輝きを見せている。
「そんな訳ありませんよ、父上」
 やんわりとそれを否定したのは、父親とは似ても似つかない、所謂優男といった風体の耀介。
「いや、深月が姫を取り戻そうとしておるんだ!」
「だから…。で、姫は?」
 反論しようとして、けれど耀介はそれをやめた。言っても聞く耳を持たない事は、息子である耀介が一番よく知っている。
「休まれておいでです」
 種田が二人のやりとりに動じる事はなかった。
「誰も入れさせるな。厳重にしておいてよ」
「は」
「で、アンタ達は?」
 一通り報告を聞き終えて、耀介は薬売りとに視線を向けた。
 突然話を振られて、の背筋が伸びる。薬売りといえば、ジロリ、と耀介の方を見るだけだった。
 やはり種田が事情を話すと、父子は明らかに不満そうな顔をした。
「得体の知れん人間を易々と屋敷へ入れるな!」
「そうだよ、女がいるからって」
「しかし、姫様が…」
「…姫も、いい気なものじゃないか…」
 耀介は舌打ちをして悪態をついた。
「お前、犬とか与えてないだろうね?」
「まさか、そのような事は」
「あ、そ」


「何だか、お二人とも藍姫様のことが心配ではないように見えました」

 退室を命じられ、薬売りとは、昨晩薬売りが与えられた部屋に向かっていた。
「見えたんじゃあ、ありませんよ」
「え?」
「心配など、していませんよ。これほどもね」
 薬売りは右手の親指と人差し指の先で、“これほど”を表した。
「え…だって」
 お嫁さんなのに、と言おうとしては言葉を切った。
 “政略結婚”。その言葉を思い出した。
 廊下の明り取りから差し込む日差しが、眩しい。
 その分、落ちる陰は濃い。
「薬売り殿、殿」
 呼び止められて、二人は振り返った。
「種田様」
 大きな身体で風を切るように、種田は足早に近付いてきた。
「頼みがあるのだが…」
「何ですか、ね」
「傷薬などあれば、分けていただきたい」
「どこかお怪我でもされたんですか?」
「いや、実は…恥ずかしい話なのだが、昨夜、姫の部屋に向かう途中であの犬達と鉢合わせしてしまってな」
「お安い御用、ですよ。しかし一つ、条件が、あるんですが、ね」





 薬売りが傷薬との交換条件にしたのは、藍に会う事だった。
 流石に初めは種田も渋ったのだが、あの犬をどうにか出来るかもしれないと言うと眼を丸くして驚き、内密に部屋に案内してくれた。
 前を行く薬売りの、更に先を行く種田の背中を、は何処か疑いの目で眺めていた。
 薬売りの言葉。何故、黒装束ではないのか。
 それが気になっていた。
「半時すれば見回りがくるから、その前に迎えに来る。それまでには済ませて貰いたい」
 分厚い木戸に鍵が掛けられた、物置のような場所。その前で種田は立ち止まった。
「それだけあれば、充分ですよ」
 薬売りは口角を上げて答えた。
 種田は鍵を解いて木戸を開ける。そこに一つ空間を置いて、その先に障子で囲まれた部屋があった。
 二人が木戸の中へ入ると、種田はすぐさま外から鍵をかけた。
 屋敷の最奥だというのに、やけに明るくて障子の白さが眩しく感じる。

“姫…”

 何処からともなく聞こえてきたのは、昨日と同じ低い声だった。
「一体…」
 がぼそりとそう呟くと、薬売りが視線を寄越した。
「どうか、しましたか」
「…声が聞こえるんです」
「声、ですか。鳴き声ではなく」
「はい。“姫”と低い声で」
 薬売りは軽く首を傾げ、何やら考え込む。も不思議そうにする。
「誰かいるの?」
 そうしていると、障子の中から声が掛けられ、二人は気を取り直して障子に向かった。
「姫様、です。少しだけお聞きしたい事があって…」
「…どうしてあなた達が…。とにかく入って」
 中へ入ると、一層白さが増した。
 四方を白に囲まれ、外の陽の光のお陰で神々しささえ感じる眩しさだった。
 その光に包まれる藍が、どうにも儚く見えた。
「種田様に無理を言って、入れていただきました」
「種田が…」
「それにしても、偉く、厳重、ですね。これじゃあ、監禁と言っても、可笑しくありませんぜ」
「監禁だもの」
 薬売りの言葉に、藍は平然と答えた。


「誰にも邪魔をされずに、確実に私を殺すための」


 表情を変える事のない薬売りに対し、驚きを隠せない
「やはり、そうですか。昨夜、貴女を襲おうとしたのは、種田様、ですね」
「えっ!?」
 困惑するを置き去りに、話は進んでいく。
「種田様の怪我。犬に噛まれたものだと、言っていましたがね…」
 部屋に向かう途中ではなく、薬売りたちの目の前で噛まれたものだ。
「そんな…」
「ばれていないと思っているんです、この家の者たちは皆」
「とんだ、猿芝居ってぇところ、ですか」
 首肯して、藍は黙り込む。
「どういうことですか…?」
 一人事情を飲み込めない
「…私は、人質だったの」
「人質?」
「私の父は、藩の保守派の有力者だった。…改革派で、昨今力をつけてきた殿山は、藩の要職に就こうと、あくどい手を使って保守派を次々と役職から退けていった」


 藍が目を閉じると、不意に真っ白な壁が揺らいで、何かが浮かび上がった。


“すまん、藍”

“どうしたの、父様。急にそんな”


 声が聞こえると同時に、壁に人影が映し出された。
 中年の男の後姿と、藍らしい娘の後姿。


“お前に縁談があった”

“縁談…。相手は?”

“殿山家の嫡男、耀介だ”

“殿山…様…”


 しんと、無音になる。


“そうしなければ、深月の家は、なくなるのですね”

“そうとは限らんが、厳しいだろう。保守派と改革派の力の差は目に見えている。…もちろん、抵抗はするつもりだが”

“当たり前です”


 明らかに藍の声なのに、今よりも凛としているように聞こえる。


“私が嫁ぐことで、深月や家臣の命が保証されるのなら、喜んで嫁ぎます”

 背筋の伸びた藍の姿は、心を決めていた。

“あわよくば、殿山の曲がった根性を叩き直して差し上げます”

“それは頼もしいな”

“父様の娘ですから”

“優秀な教育係もついていたしな”

“…はい…”















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2012/2/5