天気雨の夜

野狐〜序の幕〜






 広大な田畑が広がっている。
 その合間を縫って点在する家々。
 何処も大きな門を構えて、一軒一軒が大きい。
 日が暮れ始め薄暗くなりかけた時分でも、色鮮やかな外壁がよく分かる。
 一軒ずつ異なる色の外壁は、それぞれの一族の色を表しているらしい。

「ここもダメでしたね…」

 大きな門から出てきたのは、薬売りとだった。
 は肩を落としながら言った。

 ここに来てから、何色目の外壁だろうか。
 宿のないこの地域で、二人は泊めてくれる場所を探していた。
 けれど、どうやらこの辺りの人々は余所者を嫌う性質のようで、受け入れてはくれなかった。
 離れや納屋でもいいと言っても、断固として首を縦に振らなかった。

「ここまで断られると、ちょっと哀しくなりますね」
「そう、ですね」
「どうしてそんなに余所者を嫌うんでしょうか」

 旅の者だと名乗ると、皆一様に眉間に皺を寄せた。
 あからさまに嫌そうな顔をして、“出て行け”と言うのだ。
 “他をあたれ”と言わないのは、他の家も同じだという事を知っているからだろう。

「そういう土地も、あるんですよ」

 薬売りはそう言って歩き始めた。

「今日は野宿ですね」

 はその後を追った。
 近頃、朝晩はすっかり冷えるようになって、出来れば野宿は避けたいというのが本音なのだが。

 は、薬売りの数歩後ろを歩く。
 辺りを気にするような素振りをして、敢えて横に並ばない。
 あれから、何故か距離を置いてしまう。
 気が付けば薬売りの後ろを歩いている。
 今までのように出来ないのだ。
 それは、薬売りからも感じ取れる。
 普通に会話はするのに、ぎこちない空気が流れるのだ。

 は、寂しそうに薬売りの背中を見つめた。


「あれは…」


 前を行く薬売りが声を上げた。
 その視線を辿ると、小道の先に家屋があった。
 他の家々からは随分と離れていて、人が住んでいるのか定かではない、そんな荒れ様だった。
 近付いてみると思った以上に大きな家で、間口は狭いのに奥に長く伸びる造りになっているようだ。

 薬売りは戸を叩こうとして、一瞬躊躇った。
 手を止めたまま視線を廻らせて、何か思案した。
 けれど、そのまま戸を叩いた。
 はそんな薬売りの様子に気付くことなくそれを見守った。

「夜分に、すみませんが」

 薬売りが声を掛けると、暫く間を置いて戸が開いた。

「どちら様でございましょう?」

 よく通る、けれどか細い声とともに、女が姿を現した。
 手に持った燭台の上で蝋燭が揺らめいて、その女を淡く照らし出している。

 は、思わず息を呑んだ。
 同性のから見ても、その女はとても綺麗だった。
 小柄で色が白く、鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちをしていた。

「薬の行商にございますが、生憎宿が見つからず、一晩泊めて、いただきたく」
「まぁ、それは大変ですわね」

 女は戸口を広く開けた。

「こんな所で良ければ、どうぞお使いください」

 小さく笑って、女は二人を中へ促す。
 薬売りに続いて、も家の中へと足を踏み入れた。

「…?」

 中へ入った瞬間、は何か違和感を覚えた。
 ぞくりと、寒気に襲われた。
 けれどそれは一瞬のことで、後は何も感じられなかった。
 薬売りはどうかと視線を向けたけれど、特に何の反応も見えない。
 だから、自分の思い過ごしだと思うことにした。

「申し遅れました、私、菊と申します」

 先を行く女が、僅かに振り返って言った。

「俺は、ただの薬売り、ですよ」
「まぁ」

 くすりと笑んだ菊を見て、でさえどきりとした。
 菊はそれ程の器量の持ち主だった。

「そちらは?」
「え、あ…助手をしております、です」

 何故だか恥ずかしくなって、は小さな声で答えた。

「夕餉はお済ですの?」
「気遣いは、無用、ですよ」
「ですが…」
「俺達は、雨露を凌ぐ事が出来れば、それで」
「そうですか? ではお部屋にご案内いたしますね。お部屋だけは沢山ありますから」

 二人のやり取りを、はどうにも落ち着かない様子で聞いていた。
 酷く胸苦しさを感じて、それ以上二人を見ていたくなかった。



 歩くごとに軋む廊下。
 人の気配が感じられない空の部屋。
 吸い込まれてしまいそうな暗闇が、この家のあちこちに潜んでいる。
 良くないところだと、は思った。
 薬売りから、離れてはいけないと。
 けれど…。
さんは、こちらの部屋をお使いください」
「…え…」
 ある部屋の前で足を止めた菊が、振り返ってそう笑った。
「別々の部屋の方がよろしいでしょうから」
 ただの助手なのだから。
 そう言われている様。
「あ…はい」
 菊は部屋へ入ると、その部屋の蝋燭に火をつけて、また廊下へと戻ってきた。
「大したものはありませんが、中のものはご自由にお使いください」
「…ありがとうございます」
 は、薬売りを見た。
 けれど、薬売りはちらりとを見ただけで、何も言ってはくれなかった。
「薬売りさんはこちらに」
「そりゃあ、どうも」
 そうして二人は、長い廊下の先へ消えていった。


 小さな蝋燭が頼りなく照らし出すのは、色褪せた世界だった。
 紅葉が大胆に描かれた襖。
 襖の端から部屋の壁全体に流れる大河。
 その二つが部屋を秋色に染めていた。
 よくよく見れば、紅葉の縁には金箔がちらほらと輝いている。
 けれど、褪せてしまった色が、過ぎた時間を物語っていた。
「…」
 どうにも心細くて敵わない。
 は、部屋の隅に座り込んで、膝を抱えた。
「天秤さんも、貸してくれなかった…」
 このところの薬売りの様子が、怖くてたまらない。
 自分とまともに目も合わせてくれない。
 こんな所に、たった一人で置いていかれることが、今まであっただろうか。

 いつも薬売りが隣にいた。
 いつだって守ってくれていた。

 それがずっと続くと思っていた。
 自身、それに何の疑問も無かった。

 確かに旅を始めた頃は、すぐに道を違えるかもしれないという不安はあった。
 けれど、すぐにそれは影を潜め、心の奥底の方へ見えなくなった。

 そうして自分は薬売りの傍にいていいのだと、思うようになっていた。


 それなのに、この有り様はどういうわけなのか。


 傍にいていいと思ったのは、自分だけだったのだろうか。






“…”


 ビクリと肩が震えた。
「…何…?」
 声が聞こえたような気がした。
 とても遠くの方で。
 何処かで聞いたことのあるような。
 モノノ怪の声だろうか。
 それとも別の何か。
 どちらにしても、にはどうすることも出来ない。
 薬売りがいなければ、結局何も出来ないのだ。



 無力なのだ。



「…いや…」

 は耳を塞いで、顔を膝に埋めた。

















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来ました。


2011/7/24