“”
「…ん…」
ぼんやりとした視界の中で、蝋燭の灯りが揺れている。
さっき見たときよりも背の縮んだ蝋燭。
「わたし…」
どうやら、眠ってしまったらしい。
顔を上げて部屋を見回す。
相変わらず、色褪せた紅葉の葉が、色褪せた川を流れている。
「…?」
ふと目に付いたのは、川で水遊びをする数匹の狐。
「さっきもあった?」
眠り込んでしまう前には気が付かなかった。
蝋燭からは一番離れた壁に描かれているため、見え辛かったのかもしれない。
酷くのどが渇いて、は荷物を探った。
取り出した竹筒は軽く、水は入っていない。
はぁ、と肩を落とすと、は立ち上がった。
燭台の傍にある予備の蝋燭を取り、手燭に刺す。
そうしてその先に火を移す。
さっきよりも明るくなった室内に、は少しだけ安堵した。
明るくなっても、やはり部屋の中は色褪せていたが。
廊下へ出ると、部屋の中とは違い、無色だった。
白い壁に、黒い床と梁が通って、ただそれだけ。
「…土間と厠の場所くらい聞いておけばよかった…」
薬売りがどの部屋に通されたのかさえ、には分からないのだ。
この何も知らない広い家の中を、彷徨い歩かなければいけない。
気は重くなる一方だった。
は震えそうになるのを抑えて、足を踏み出した。
廊下を真っ直ぐに歩き、突き当たったところを右へ。
その先には暖簾がかかり、そこが土間なのだと分かった。
その手前を左へ折れると、そこからは先はが通された部屋よりも広い部屋が並んでいるようだった。
薬売りは何処にいるだろうか。
は左へと向きを変えた。
左手には障子が並び、右手には中庭が広がっている。
池には鯉もなく、木々は時が止まったように佇んでいた。
時折、音もなく葉が落ちては、白い玉砂利を黒く染める。
とても寂しい場所だ。
はなるべく蝋燭の火を見るように心がけた。
今ここで、色を持っているのは、この火と、自分だけなのだ。
いくつかの部屋を通り過ぎると、その先に煌々と明かりの灯った部屋が見えた。
の手にある蝋燭の何倍もの明るさ。
近付くと、中から声が聞こえた。
「ふふ、如何ですか?」
妙に艶っぽい。
「こちらは?」
菊の声。
「まぁ、そんな…、ふふ」
これ見よがしに障子に隙間が出来ていた。
いかにも“覗け”と言わんばかりの。
は恐る恐るその隙間を遠巻きに覗いた。
鮮やかな橙の着物のすぐ隣に、見慣れた色の着物が見えた。
全身が粟立った。
思っても見なかったことだ。
は、全身の震えを必死に押さえ込んで、やっとの思いで踵を返した。
そのまま土間に駆け込むと、力なく座り込んだ。
手燭を床に置くとき、ガタガタと音を立てたが、の耳には入っていなかった。
「今…の…」
酷い動悸で、上手く息が出来ない。
胸の奥がびくびくと跳ねて、とても正常とはほど遠い。
瞬きも出来ず、目には涙が溜まっていく。
震える両手で、戦慄く唇を覆う。
きっと、菊と一緒にいたのは、薬売りなのだろう。
だってこの家には、他に人なんていない。
だってあの色を、見間違う事なんてない。
「どうして…」
これまで薬売りは、言い寄ってくる女を面倒に思っていた。
それは確かだ。
だからが恋人だの夫婦だのと振舞ってきたのだ。
そうすれば、そうそう女は寄り付かない。
けれど…
菊ほどの美人が相手ではどうだろう。
言い寄られて、悪い気はしないのではないか。
そうでなければ、いつも先手を打ってのことを恋人だと思わせる素振りをするのに、が自分を“助手”だと名乗っても、無反応であるはずがない。
さっき薬売りは、菊のことを拒んではいなかったではないか。
薬売り自身の声が聞こえなくとも、菊の声を聞けば分かる。
には、経験のない空間だった。
「私…」
もしかしたら、薬売りは自分の知らないところで、そんな時間をいくつも過ごしてきたのかもしれない。
そんな考えが過ぎった。
旅を始めたばかりの頃、が薬売りに言った言葉。
“私の目の届くところで、無粋なことはしないで下さい。”
それをきちんと守っていたのだとしたら。
「私は…」
には、はっきりと分かった。
自分は、薬売りにそんな対象として一切見られていないということが。
そんなことは、とうの昔から分かっていたはずなのに―。
現実として突きつけられると、思っていた以上に辛いものがあった。
溢れた涙が、とうとう零れ落ちた。
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2011/7/31