天気雨の夜

野孤〜三の幕〜










 ―カタッ。


「…!?」

 突然の物音に、は肩を震わせた。
 涙を拭う事もせずに、音のした方に視線を向ける。
 勝手口の木戸が、微かに開いている。
 その隙間に、何かが二つ光っていた。

 はゆっくりと立ち上がって、なるべく音を立てないようそちらに近付いた。
 暗くてよく見えなかったが、その光が、何かの瞳だと分かった。

「…」

 が口を開きかけた瞬間、それは逃げてしまった。
 身を翻した一瞬、黄金色に光る毛並みが見えた。

「きつね…?」

 きょとんと土間に立ち尽くす
 近くの山から下りてきたのだろうかと、首を傾げる。

「みんな、私なんて…」

 小さく呟いて、は漸く涙を拭った。
 自嘲気味に笑うと手燭を拾い上げ、来た道を戻ろうとした。


さん…?」


「…薬売りさん…」


 の声は、微かに震えていた。
 今は、出来れば会いたくはなかった。

 蝋燭がゆらゆらと二人を照らしている。
 酷く不安定だ。

「何を、しているんで」
「…ちょっとお水を」

 そういえば、飲んでいない事に気が付いた。
 気が付いてしまうと、喉が渇いて仕方がないように思う。

「大丈夫、ですか」
「…はい」
「何か、変わったことは」
「…いえ、何も」
 自分でも、余所余所しいと分かる返事。
 それなのに、薬売りはいつもと何ら変わりのない態度をとる。

「じゃあ、私、部屋に戻りますね。疲れちゃいました」

 小さく笑って、は薬売りを通り過ぎようとした。
 けれど…

「な…」

 すれ違う間際、薬売りがの腕を掴んだ。
 驚いたは、身体を硬くする。
「何ですか?」
「本当に、大丈夫なんで」
「大丈夫です」
「いつものように、部屋を…」
「平気ですって!」
 思わず、大きな声を出してしまった。

 自分に隠れて女の人と遊んでいるくせに、どうしてそんな事を言うの。

さん」


「―あの人に触れた手で、私に触らないで下さい!!」


 薬売りの手を振りほどくと、は駆け出した。
 そうして廊下の闇に消えていった。

「…」

 一人残された薬売りは、の言葉に首を傾げていた。
















 部屋に戻ったは、後悔していた。
 何故、あんなことを言ってしまったのか。
 触れられるのは、恥ずかしいけれど、嫌ではなかったはずだ。
 寧ろ、もっと触れて欲しいとさえ思っていた。

 けれど、その同じ手で“誰か”に触れていたのだと思うと、嫌悪感を覚える。

「私は…我侭で、自分勝手だ…」

 はさっきと同じように、膝を抱えた。
 ぼんやりと部屋の絵を眺めてみる。
 相変わらず、色褪せた世界が広がっている。
「…ん?」
 狐の絵は、何処に行っただろうか。
 は目を凝らす。
 何処にあったのか、思い出せない。

 ―ガサ。

 部屋の隅の方で、小さな物音がした。
 普段のならば驚いて警戒しただろう。
 けれど、今のはただ音のした方を眺めているだけで、何をしようと言うわけでもなかった。
 姿を現したのは、小さな狐だった。
「さっきの…狐さんかな…?」
 何故だか、頭が働かない。
 狐は、部屋の隅から二、三歩進み出て、辛うじて灯りの届く所に、前足を揃えてお座りをした。
 そうして、じっとを見つめた。
「ごめんね…、何だか凄く…眠いんだ」
 そう言うとは、ゆっくりと瞳を閉じた。






「…な…に…?」






 辺りを見回すと、随分と背の高い大きな草が生い茂っていた。
 青々としたその合間を縫って、は歩いていた。
 足元が悪くて、足を踏み出すといくらか沈んでいく。

 大きな草は、ゆっくりゆっくり風に揺れ、さわさわと大きく音を立てる。

「違う…」

 草が大きいのではない。
 自分が小さくなったのだ。
 は遠くに見える空を仰いだ。
 視線がとても低い。

「どういうこと?」

 訳がわからない。
 何故こんなにも周りのものが大きいのだろうか。
 そもそも何故自分はこんな所にいるのだろうか。

 もう一度辺りを見回そうとすると、正面でガサガサと音を立てて草を揺らすものがあった。
 草を掻き分けて姿を現したのは、三匹の狐だった。
 大きな、いや、が小さくなってしまったのだから大きくはないが、と同じ目線の高さだった。
 見るからにやせ細って、毛並みも悪い。
 身体の大きさや形から見てもまだ仔狐だ。

 その狐たちは、に近付いてくると、身体を擦り合わせた。
 まるで互いの安否を確認するかのように。

「…私…」

 その時漸く理解した。
 は今、狐なのだ。
 自分の意識が、狐の中に入っているのだと。

 だから思ってもいないように身体が動く。

 を含め、仔狐たちはじゃれあうように走り出した。
 草の森を抜け、急な斜面を転がるように下りる。
 きっと人間には、ほんの四、五歩くらいの坂だ。
 ぶるぶると身体を震わせて土埃を払う仔狐たち。
 再び走り出すと、鬱蒼とした垣根の下をくぐって大きな家へと入っていった。

 そうして縁側の近くまで行くと、家の中に人の気配を感じた。
 ゴホゴホと苦しそうに咳を繰り返し、どうやら床に伏しているらしい。
 周りの狐達が、躊躇いもせずその部屋に上がりこんでいく。
 が入り込んでいる狐も、それに続こうとした。



!!”



「―!??」


 呼ばれた気がして、はビクリと肩を震わせた。
 自分の両腕が抱えた、自分の両膝が見える。
 何故だか酷く汗をかいて、喉がカラカラだ。

 けれど、あの夢から覚めたのだと分かった。

 は、辺りを確かめようと恐る恐る顔を上げた。

 するとすぐに、鈍く光る鋭い牙と真っ赤な舌が目に入った。
 滴り落ちるのは、唾液なのだろう。



 そこには、口を開けて、今にも襲い掛かろうとしている大きな狐の姿があった。





「―きゃああぁぁぁぁぁっっ!!!!」

















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2011/8/7