―カタッ。
「…!?」
突然の物音に、は肩を震わせた。
涙を拭う事もせずに、音のした方に視線を向ける。
勝手口の木戸が、微かに開いている。
その隙間に、何かが二つ光っていた。
はゆっくりと立ち上がって、なるべく音を立てないようそちらに近付いた。
暗くてよく見えなかったが、その光が、何かの瞳だと分かった。
「…」
が口を開きかけた瞬間、それは逃げてしまった。
身を翻した一瞬、黄金色に光る毛並みが見えた。
「きつね…?」
きょとんと土間に立ち尽くす。
近くの山から下りてきたのだろうかと、首を傾げる。
「みんな、私なんて…」
小さく呟いて、は漸く涙を拭った。
自嘲気味に笑うと手燭を拾い上げ、来た道を戻ろうとした。
「さん…?」
「…薬売りさん…」
の声は、微かに震えていた。
今は、出来れば会いたくはなかった。
蝋燭がゆらゆらと二人を照らしている。
酷く不安定だ。
「何を、しているんで」
「…ちょっとお水を」
そういえば、飲んでいない事に気が付いた。
気が付いてしまうと、喉が渇いて仕方がないように思う。
「大丈夫、ですか」
「…はい」
「何か、変わったことは」
「…いえ、何も」
自分でも、余所余所しいと分かる返事。
それなのに、薬売りはいつもと何ら変わりのない態度をとる。
「じゃあ、私、部屋に戻りますね。疲れちゃいました」
小さく笑って、は薬売りを通り過ぎようとした。
けれど…
「な…」
すれ違う間際、薬売りがの腕を掴んだ。
驚いたは、身体を硬くする。
「何ですか?」
「本当に、大丈夫なんで」
「大丈夫です」
「いつものように、部屋を…」
「平気ですって!」
思わず、大きな声を出してしまった。
自分に隠れて女の人と遊んでいるくせに、どうしてそんな事を言うの。
「さん」
「―あの人に触れた手で、私に触らないで下さい!!」
薬売りの手を振りほどくと、は駆け出した。
そうして廊下の闇に消えていった。
「…」
一人残された薬売りは、の言葉に首を傾げていた。
部屋に戻ったは、後悔していた。
何故、あんなことを言ってしまったのか。
触れられるのは、恥ずかしいけれど、嫌ではなかったはずだ。
寧ろ、もっと触れて欲しいとさえ思っていた。
けれど、その同じ手で“誰か”に触れていたのだと思うと、嫌悪感を覚える。
「私は…我侭で、自分勝手だ…」
はさっきと同じように、膝を抱えた。
ぼんやりと部屋の絵を眺めてみる。
相変わらず、色褪せた世界が広がっている。
「…ん?」
狐の絵は、何処に行っただろうか。
は目を凝らす。
何処にあったのか、思い出せない。
―ガサ。
部屋の隅の方で、小さな物音がした。
普段のならば驚いて警戒しただろう。
けれど、今のはただ音のした方を眺めているだけで、何をしようと言うわけでもなかった。
姿を現したのは、小さな狐だった。
「さっきの…狐さんかな…?」
何故だか、頭が働かない。
狐は、部屋の隅から二、三歩進み出て、辛うじて灯りの届く所に、前足を揃えてお座りをした。
そうして、じっとを見つめた。
「ごめんね…、何だか凄く…眠いんだ」
そう言うとは、ゆっくりと瞳を閉じた。
「…な…に…?」
辺りを見回すと、随分と背の高い大きな草が生い茂っていた。
青々としたその合間を縫って、は歩いていた。
足元が悪くて、足を踏み出すといくらか沈んでいく。
大きな草は、ゆっくりゆっくり風に揺れ、さわさわと大きく音を立てる。
「違う…」
草が大きいのではない。
自分が小さくなったのだ。
は遠くに見える空を仰いだ。
視線がとても低い。
「どういうこと?」
訳がわからない。
何故こんなにも周りのものが大きいのだろうか。
そもそも何故自分はこんな所にいるのだろうか。
もう一度辺りを見回そうとすると、正面でガサガサと音を立てて草を揺らすものがあった。
草を掻き分けて姿を現したのは、三匹の狐だった。
大きな、いや、が小さくなってしまったのだから大きくはないが、と同じ目線の高さだった。
見るからにやせ細って、毛並みも悪い。
身体の大きさや形から見てもまだ仔狐だ。
その狐たちは、に近付いてくると、身体を擦り合わせた。
まるで互いの安否を確認するかのように。
「…私…」
その時漸く理解した。
は今、狐なのだ。
自分の意識が、狐の中に入っているのだと。
だから思ってもいないように身体が動く。
を含め、仔狐たちはじゃれあうように走り出した。
草の森を抜け、急な斜面を転がるように下りる。
きっと人間には、ほんの四、五歩くらいの坂だ。
ぶるぶると身体を震わせて土埃を払う仔狐たち。
再び走り出すと、鬱蒼とした垣根の下をくぐって大きな家へと入っていった。
そうして縁側の近くまで行くと、家の中に人の気配を感じた。
ゴホゴホと苦しそうに咳を繰り返し、どうやら床に伏しているらしい。
周りの狐達が、躊躇いもせずその部屋に上がりこんでいく。
が入り込んでいる狐も、それに続こうとした。
“!!”
「―!??」
呼ばれた気がして、はビクリと肩を震わせた。
自分の両腕が抱えた、自分の両膝が見える。
何故だか酷く汗をかいて、喉がカラカラだ。
けれど、あの夢から覚めたのだと分かった。
は、辺りを確かめようと恐る恐る顔を上げた。
するとすぐに、鈍く光る鋭い牙と真っ赤な舌が目に入った。
滴り落ちるのは、唾液なのだろう。
そこには、口を開けて、今にも襲い掛かろうとしている大きな狐の姿があった。
「―きゃああぁぁぁぁぁっっ!!!!」
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2011/8/7