「さん!?」
聞きなれた声の、聞きなれない絶叫を聞いて、薬売りは立ち上がった。
整理の途中だった荷物を荒々しく行李に詰め込んで背負う。
何故、離れてしまったのだろう。
いつもすぐ傍にいて、離れるときは天秤や札を与えた。
それなのに、今夜に限って。
この家には何かあると、初めから分かっていたはずなのに。
薬売りは力任せに障子を開けて、廊下へと出た。
けれど―。
「薬売りさん、どちらへ?」
部屋を出るとすぐに、菊が立っていた。
口元に妖しげな笑みを浮かべている。
「いえね、連れのことが、気になりまして」
薬売りも口角を上げ、同じような笑みを作る。
「そうですか」
菊は薬売りの行く手を阻むかのように両手を広げる。
それと同時に、菊の足元に三匹の狐が現れた。
「さぞ、ご心配でしょうね。…でも、行かせる訳にはいきませんわ」
ニヤリと笑うと、狐が薬売り目掛けて駆け出した。
足元、胸、頭上。
三匹が別々の方向から迫ってくる。
薬売りは素早く札を放った。
廊下の床から天井までに整列した札は、それ以上の狐の接近を許さない。
狐達は何度札に阻まれても向かってくる。
「ここに来る人間は皆、食ろうてやるわ!」
そう言うと自らも薬売り目掛け襲い掛かってきた。
その手には、長く伸びた爪が光っている。
「くっ…!」
薬売りの声に反応して、整列した札の色が濃くなる。
それに激突した狐達は、勢いよく跳ね飛ばされていく。
菊は長い爪で札を破ろうとするが、思うようにはいかない。
けれど、妖しい笑みはそのままで、口を開いた。
「こうしている間に、あの娘…食われているかもねぇ」
「何…?」
「念のため、あの娘にも一匹差し向けたけれど、どうやら無用だったようね」
薬売りは苦い顔をする。
「あの娘には、何の力もないのね。簡単に術に嵌ってくれたし」
「…さんに、何をした」
「大したことはしてないから、安心なさい。ほんの少し不安を煽っただけだから」
薬売りは激昂した。
「ハァッッ!!」
退魔の剣を取り出し、正面に掲げると気合の声を上げた。
整列していた札が一斉に動き出す。
するすると滑るように移動しながら、四つに分かれた。
そしてそれぞれが、菊と狐の回りを囲もうとした。
「何!?」
菊はその場を離れようとしたが、札の動きが速く足を絡め取られた。
そうして札が素早く菊の周りを取り囲む。
狐達も同じように札の中に囚われた。
いつもは模様が外を向いて、外敵からの結界になっている札が、今回ばかりは内側を向いて、敵の動きを封じにかかっているのだ。
狐たちは取り払おうと札に体当たりを試みたが、触れたところから火花が散り、火傷のような傷を受けた。
「貴様…」
「そこで、大人しくしていて、もらいますよ」
薬売りはそう言い捨てて、札に囲まれた菊の横を走り去っていった。
とはいえ、術者が近くにいなければ、結界は次第に弱まっていく。
早くの元へ行かなければと、薬売りは珍しく焦った。
何故、傍にいなかった。
何故、距離を置いてしまった。
きつく噛み締めるのは後悔。
全て、自分が悪い。
守ると約束したのに。
いや、約束したからではない。
自分が、守りたいと思ったのだ。
守りたい。
傍にいたい。
傍に置きたい。
他の誰にも、渡したくない。
「…俺も存外、我侭な人間なようで…」
走りながら自嘲して、角を曲がった。
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ちょっと短め?
2011/8/14