じりじりと距離を詰めてくる大きな狐。
鋭い眼光が、を刺す。
その背丈はの肩くらいまではあるだろう。
けれどそれを確かめられるような余裕はない。
元から部屋の隅にいたに、それ以上逃げる場所などない。
狐がにじり寄ってくる毎に、壁にへばりつくように身を縮めるだけだ。
狐がゆるりと右の前足を上げた。
あ…
前足が振り下ろされると同時に、は決死の覚悟で走り出した。
左前足の横をすり抜けて、元居た場所と対角線上にある燭台の方へ倒れこんだ。
「い…っ」
左肩を、爪が掠めていた。
二本ばかり着物に線が走り、その下の皮膚が僅かに赤く滲んでいた。
けれど、はそのまま使っていない背の高い燭台に手を伸ばした。
両手で掴んで、燭台の先を狐に向ける。
狐はゆっくりと身体を動かして、のほうに向き直る。
「来ないで!」
燭台を振り回して、狐が近づけないようにする。
こんなことしか出来ないけれど、何もしないよりはマシだ。
きっと薬売りが助けに来る事は、ないのだから。
狐は暫くじっとの行動を見ていたが、一歩距離を詰めると再び前足を上げた。
「きゃあっ!」
狐の爪が燭台を引っ掛け、の手を離れた。
燭台は天井高くまで舞い上がり、鈍い音を立てて畳に落ちた。
燭台を掴んでいたも、途中で手が離れたものの、引き摺られて畳に身体を擦りつけた。
その衝撃で頭がくらくらする。
ぼんやりとした視界の中で、狐がこちらを睨むのが見えた。
“人間、憎イ、食ウ”
「あっちへ行け!」
「この盗人狐が!!」
野太い怒声が耳を劈いた。
「キャンッ」
すぐ隣で、高い悲鳴が聞こえた。
見れば、あの仔狐たちが倒れている。
何事かと、辺りを見回す。
何かが大きな音を立てて落ちてくる。
次々と石が降ってくるのだ。
「ここは俺達の畑だ!」
「さっさと失せろ!!」
怒声と石を浴びせられて、狐達はのろのろとその場から逃げ出した。
ある狐は後ろ足を引き摺るように、ある狐は耳の辺りから血を流して。
行き着いた先は、あの屋敷だった。
軽々と上っていたはずの縁側をやっとの思いで上る狐達。
はやはり低い視点でそれを見ていた。
狐達が家の奥へと姿を消すと、其方の方から声が聞こえてきた。
「まぁ、なんて酷い…」
細い、女の声だった。
「こんなに血が…、ゴホッ」
狐達を心配していながら、自身も具合が良くないようだ。
時折咳き込み、声も掠れている。
「あれほど畑の作物はダメって言ったのに…」
女の声が、小さくなった。
の意識が宿る狐も、家の中へと入っていく。
暗い部屋の中で、女が一人座り込んでいた。
顔は良く見えない。
その右手が、畳の上を左右に動いている。
三匹の仔狐が、背中を丸めて横たわっていた。
女はその背を、順に撫でてやっているのだ。
もう動く事のない、その小さな身体を。
「可哀相に…」
いつまでも撫でていると、外が騒がしくなった。
何人もの人の気配がする。
「おい、女! 居るか!?」
野太い声が、家中に響いた。
女はびくりと肩を震わせると、狐を撫でる手を止めた。
狐たちの亡骸を手近な布で包んで押入れの上の段に仕舞う。
そうして生き残っている一匹もその下の段に押し込んだ。
真っ暗な押入れ。
そうしてには、狐のものか自分のものか分からない鼓動と、外の物音を聞くことしか出来なくなった。
いくつもの足音が徐々に大きくなってくる。
やがて襖が小気味のいい音を立てて開け放たれた。
「いるなら、返事くらいしたらどうだ」
怒気を孕んだ低い声が、女に浴びせられる。
「返事をする前に、お上がりになったのは其方様です」
「ふんっ」
床を擦る音からして土足だ。
「一体、何用でしょうか」
「狐がここに逃げ込んだだろう」
「さぁ、何の事だか」
「とぼけるな、この目で見たんだぜ」
男達が詰め寄っていく。
「畑を荒らしやがって、どうせお前がそうさせたんだろう」
「私が、どうやって」
「どうとでも出来るわ」
「何故?」
「何故、だと? それはお前が一番分かってんじゃないのか」
狐が、前足を僅かに滑らせた。
襖を小さく引っ掻いて、細く光が差し込んだ。
狐は、ゆっくりとその光の先を覗き込んだ。
NEXT
まだまだ続きます。
2011/8/21
昨日、無事に開設二周年を迎えました。