天気雨の夜

野孤〜五の幕〜






 じりじりと距離を詰めてくる大きな狐。
 鋭い眼光が、を刺す。
 その背丈はの肩くらいまではあるだろう。
 けれどそれを確かめられるような余裕はない。

 元から部屋の隅にいたに、それ以上逃げる場所などない。
 狐がにじり寄ってくる毎に、壁にへばりつくように身を縮めるだけだ。

 狐がゆるりと右の前足を上げた。

 あ…

 前足が振り下ろされると同時に、は決死の覚悟で走り出した。
 左前足の横をすり抜けて、元居た場所と対角線上にある燭台の方へ倒れこんだ。
「い…っ」
 左肩を、爪が掠めていた。
 二本ばかり着物に線が走り、その下の皮膚が僅かに赤く滲んでいた。

 けれど、はそのまま使っていない背の高い燭台に手を伸ばした。
 両手で掴んで、燭台の先を狐に向ける。
 狐はゆっくりと身体を動かして、のほうに向き直る。

「来ないで!」

 燭台を振り回して、狐が近づけないようにする。
 こんなことしか出来ないけれど、何もしないよりはマシだ。

 きっと薬売りが助けに来る事は、ないのだから。

 狐は暫くじっとの行動を見ていたが、一歩距離を詰めると再び前足を上げた。
「きゃあっ!」
 狐の爪が燭台を引っ掛け、の手を離れた。
 燭台は天井高くまで舞い上がり、鈍い音を立てて畳に落ちた。
 燭台を掴んでいたも、途中で手が離れたものの、引き摺られて畳に身体を擦りつけた。
 その衝撃で頭がくらくらする。
 ぼんやりとした視界の中で、狐がこちらを睨むのが見えた。


“人間、憎イ、食ウ”









「あっちへ行け!」
「この盗人狐が!!」


 野太い怒声が耳を劈いた。


「キャンッ」

 すぐ隣で、高い悲鳴が聞こえた。
 見れば、あの仔狐たちが倒れている。
 何事かと、辺りを見回す。
 何かが大きな音を立てて落ちてくる。
 次々と石が降ってくるのだ。


「ここは俺達の畑だ!」
「さっさと失せろ!!」


 怒声と石を浴びせられて、狐達はのろのろとその場から逃げ出した。
 ある狐は後ろ足を引き摺るように、ある狐は耳の辺りから血を流して。

 行き着いた先は、あの屋敷だった。
 軽々と上っていたはずの縁側をやっとの思いで上る狐達。
 はやはり低い視点でそれを見ていた。
 狐達が家の奥へと姿を消すと、其方の方から声が聞こえてきた。


「まぁ、なんて酷い…」


 細い、女の声だった。


「こんなに血が…、ゴホッ」


 狐達を心配していながら、自身も具合が良くないようだ。
 時折咳き込み、声も掠れている。


「あれほど畑の作物はダメって言ったのに…」


 女の声が、小さくなった。
 の意識が宿る狐も、家の中へと入っていく。

 暗い部屋の中で、女が一人座り込んでいた。
 顔は良く見えない。
 その右手が、畳の上を左右に動いている。

 三匹の仔狐が、背中を丸めて横たわっていた。

 女はその背を、順に撫でてやっているのだ。
 もう動く事のない、その小さな身体を。



「可哀相に…」






 いつまでも撫でていると、外が騒がしくなった。
 何人もの人の気配がする。


「おい、女! 居るか!?」


 野太い声が、家中に響いた。
 女はびくりと肩を震わせると、狐を撫でる手を止めた。
 狐たちの亡骸を手近な布で包んで押入れの上の段に仕舞う。
 そうして生き残っている一匹もその下の段に押し込んだ。
 真っ暗な押入れ。
 そうしてには、狐のものか自分のものか分からない鼓動と、外の物音を聞くことしか出来なくなった。

 いくつもの足音が徐々に大きくなってくる。

 やがて襖が小気味のいい音を立てて開け放たれた。

「いるなら、返事くらいしたらどうだ」

 怒気を孕んだ低い声が、女に浴びせられる。

「返事をする前に、お上がりになったのは其方様です」
「ふんっ」
 床を擦る音からして土足だ。
「一体、何用でしょうか」
「狐がここに逃げ込んだだろう」
「さぁ、何の事だか」
「とぼけるな、この目で見たんだぜ」

 男達が詰め寄っていく。

「畑を荒らしやがって、どうせお前がそうさせたんだろう」
「私が、どうやって」
「どうとでも出来るわ」
「何故?」
「何故、だと? それはお前が一番分かってんじゃないのか」

 狐が、前足を僅かに滑らせた。
 襖を小さく引っ掻いて、細く光が差し込んだ。

 狐は、ゆっくりとその光の先を覗き込んだ。





















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まだまだ続きます。


2011/8/21



昨日、無事に開設二周年を迎えました。