「さん!!」
聞きなれた声で呼ばれて、ハッと目が覚める。
すぐ目の前に、潤朱に金の曲線。
大きな蝶のような帯が、こちらに向いていた。
「くすりうりさん…?」
起き上がろうとして、左肩の痛みと、全身の軋みに顔が歪む。
それを堪えて、漸く体勢を整えた。
「無事で、何より、ですよ」
こちらに背を向けながら、薬売りがそう呟く。
その先には札が並んでいて、薬売りが両手の指先まで力を込めて結界を維持している。
札の色は既に金になっていた。
その向こうには、あの大きな狐が身を低くして今にも襲い掛かってきそうな体勢を取っている。
「…どうして…」
は小さく言っていた。
それは、薬売りに対してだった。
あんな事を言ったのに。
どうして守ってくれるのか。
「未だ、真と理は…」
薬売りには、の問いがモノノ怪に対するものに聞こえた。
その言葉に、は我に返る。
こんなときに何を考えているのか。
「じ、じゃあ形は分かったんですか?」
「形は、野狐、ですよ」
既に見破った後なのだろう、獅子頭は鳴らなかった。
「この屋敷には、あの女や狐達の念が満ちて、少々厄介、ですね…」
「あの女って…」
「取り込まれないよう、気をつけて、ください」
「…」
もう、取り込まれてしまったのかもしれない。
は、息を呑む。
あの夢は、この屋敷に充満した狐の念が見せたものだろうか。
「わたし…」
「…さん?」
震える声が、自らの不安を増長した。
今まで見てきた夢が、きっと“真”と“理”に繋がるはず。
なのに…。
「おや、こんな所に」
薬売りが開けたであろう障子から、菊が姿を現した。
足元に狐を引き連れて、その手には薬売りの札が握り締められている。
最初に会ったときと見た目は何も変わらないのに、あの殺気に満ちた空気は何だろう。
菊の姿を確認すると、それまで薬売りと対峙していた大きな狐が、黄色い光の玉となって菊の下へと飛んでいった。
そうして他の狐と同じように小さな狐へと姿を変える。
菊は身を屈めると、優しく狐の頭や背を順に撫でていく。
狐達はそれに身体を摺り寄せて応える。
「人間が憎い…、ねぇお前達?」
クスリと嗤う。
それが合図となって、狐達は再び黄色い光の玉となって宙に浮かび上がった。
「食っておやりなさい!」
次々と結界に飛び込んでくる狐達。
その度に大きく火花が散る。
「何をそこまで憎んでいる!」
薬売りが必死の形相で結界を保持する。
はその後ろで、何も出来ないでいる。
次第に強くなっていく念に、声に、震えが止まらない。
“憎イ”
“人間”
“憎イ”
ズキリと、肩の傷が痛む。
傷口を抑えて、は途切れそうになる意識を必死に繋ぎとめる。
「さん!」
横目で薬売りが声を掛けてくる。
結界を保持するのを右手に集中し、左手でに手を伸ばした。
けれど、触れる寸前にその手は止まった。
そうして、堅く拳を作って自分の方へ戻してしまった。
「薬売りさん…」
絶望にも似た表情。
菊や狐達の念や声に押しつぶされそうなに、薬売りのその行動は決定的なものだった。
もう、耐えられない。
そう思ったときだった。
“”
何処からか声がした。
“呼べ”
何処かで聞いたことのあるような。
“”
“名を呼べ”
名。
一体誰の。
“呼べ”
頭の奥からなのか、胸の奥からなのか、言葉が溢れてきた。
「しゅ…な…?」
“もっと強く”
「繻雫…!」
その言葉と同時に、の中から真っ白な光が飛び出した。
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結構ベタです。
ちなみに繻雫=しゅな、と読みます。
2011/8/28