雲が空を覆う、陰鬱な毎日。
いつでも雨が降り出しそうな空をしている。
「降りそうですねぇ」
は不安そうに空を見上げる。
「今日は、降りませんよ」
薬売りは前を見たまま歩いていく。
「分かるんですか?」
「勘、ですよ」
「勘、ですか…」
ふう、と軽く息を吐き出す。
「今日はまだ、猫が顔を洗ったり、燕が低く飛んだところを、見ていませんから」
「それって…」
前にモノノ怪になってしまった女が言っていたらしい迷信。
先を行く薬売りを追いかける。
その町に宿を取ってから、三日が経っていた。
声こそぼんやりと聞こえるのに、それが何処から聞こえてくるのか突き止められずにいた。
その間もちろん薬売りは薬を売り、は奉公先を紹介してもらい働いていた。
三日目の夕暮れ、仕事を終えた二人は合流して声の出所を探して町を歩いていた。
まだ歩いた事のなかった町の外れの道まで来た。
町の端の方だというのに、何軒もの大きな店が軒を連ねている。
「…?」
その軒の下を、小さな影がすり抜けて行った様な気がして、はそちらに足を向けた。
角を曲がると、ある店の中に小さな子どもが入って行くのが見えた。
「わぁ、こんなところに呉服屋さんなんてあったんですね」
が店の前で立ち止まった。
結構な大店。周りの店店よりも大分構えが大きい。
暖簾の隙間から中に飾ってある着物を覗き見る。
「振袖、ですか」
「そうみたいです」
人気の無い店の中に、足を踏み入れようとしたその時。
「…ほぅ…」
薬売りが小さく息を吐いた。
「何ですか?」
「いえ」
は首を傾げながら、店に入っていく。
静まり返った店の中は、薄暗くて気味が悪かった。
「あの、すみません。もう店は閉めたはずなんですが」
奥から出てきたのは奉公人らしい女だった。
「え、でも暖簾…」
は振り返ると、その通り入口には暖簾が緩い風にはらはらと揺れている。
「…さっき仕舞ったんですが…」
困惑した顔で女は下へ降りて暖簾を取り込む。
女は薬売りの後ろを通ったとき、行李をちらりと見た。
「あの、もしかして最近評判の薬売りの方ですか?」
「おそらくは」
この三日で、薬売りの評判は街中に広まっているようだ。
「あの! 奥様に何か薬を出してくれませんか?」
二人が通されたのは、家の奥まった所にある部屋だった。
「貴方が噂の薬売りですか…。私は若松屋兵衛門と申します」
いかにも利発そうな年若い主人が二人を見る。
二人は手をついて頭を下げる。
「頭など下げる必要はないですよ。私も貴方も商売人ですからね」
「そう、ですか」
「さっそく本題だが、妻の彩が先日子を産みまして、しかし、産後の肥立ちが悪いようで寝込んでいるのですよ」
「それは大変ですね」
は同情の色を見せる。
「奥の部屋で伏せております。診てもらえますか」
「もちろん、ですよ」
立ち上がる兵衛門に二人が続く。
「彩、入るぞ」
隣の部屋への襖を開ける。
薄暗い部屋の中に、三人。
布団に入りながらも上体を起こしている顔色の悪い女。
その傍らに赤子を抱いた女中。
少し距離を置いて兵衛門よりも幾分年上の男。
「禄郎も来ていたのか」
「はい」
禄郎と呼ばれた男は、丁寧に頭を下げてから場所を空ける。
禄郎は、主の後ろに居る見慣れない客を怪訝そうな顔で見る。
「お二人には、薬を頼んだのだよ。これは番頭の禄郎です」
兵衛門は、薬売りたちと禄郎を交互に見て紹介する。
「彩、具合はどうだ?」
「…」
「こうして起き上がるのも、やっとでございます」
彩の代わりに女中が答える。
彩はと言えば、背中を丸くして苦悶の表情を浮かべている。
「何も、寝ていればいいものを…」
兵衛門も辛そうな顔をして、彩の背中を擦る。
「これから薬を出してもらうから、飲んで養生しなさい」
「…はい」
彩は、掻き消えそうなほど小さく返事をした。
薬の用意には時間がかかるというと、部屋を貸すから泊まっていけばいいと言われた。
迷路のように入り組んだ家の中を進んで、薬売りとは別々の部屋に通された。
「一人部屋なんて、久しぶりかも」
二分音符でも付きそうな声音で、は部屋に入る。
女郎蜘蛛以降、薬売りと同室が続いて、何となく緊張しっぱなしだった。
気楽に一人で居られることも嬉しいが、宿代が零だということも喜ばしい。
「薬売り様様かな?」
クスリと笑う。
客間なのか、八畳ほどの部屋に鏡台もあれば衣紋掛けもある。
襖を開けてみれば押入れには柔らかそうな布団。
「その辺の宿よりいい綿が入ってそう」
は嬉しそうにその布団に顔を埋める。
「…?」
ふと、何か気配を感じた。
押入れに突っ込んでいた顔を戻して、部屋を眺める。
部屋を巡る視線が止まったのは、廊下側の障子。
障子が僅かに開いて、その隙間から、何かが覗いている。
は恐る恐る、障子に近付く。
そして、覗いているのが子どもだと分かる。
「何してるの?」
子どもと同じように、も隙間から覗いてやる。
大きな瞳が、を映す。
「私に何か用があるの?」
スルリと障子を開けると、小さな女の子がを見上げていた。
禿のように切りそろえられた真っ黒な髪。
韓紅の着物と黒が互いを引き立てている。
まだ幼いのに、妙な存在感が在った。
「あ、あなた、さっきの子ね?」
この店の中に入っていった子どもだ。
微かに頷いて、それを肯定してくれる。
「どうしたの?」
何度も問いかけているのに、返事をしない。
恥ずかしがりやなのかな。
そう思う。
「…あそんで…」
聞こえるか聞こえないかという声で、その子は呟いた。
「…そっか」
母親は床に伏して、父親はそれに付きっきり。
女中たちも他の奉公人たちも、それぞれの仕事で忙しいから、きっと遊んでもらえないのだろう。
「私でいいなら」
は微笑む。
女の子はコクリと頷くと、部屋の中に入ってきた。
「何して遊ぶの?」
問いかけると、女の子は帯に結び付けていた巾着を取った。
その中から取り出したのは…。
「お手玉?」
また、コクリと頷く。
「よ〜し、じゃあやろう!」
そうして二人でお手玉に興じ始めた。
じゃらじゃらと、掴むたびに音が鳴る。
宙に浮いては落ちて来るお手玉を、掌で受け止めてはまた宙へ。
柔らかな藤色のそれは、少しくたびれているが、女の子の手に合った大きさをしている。
「上手、上手。その調子」
女の子は必死に二つのお手玉をゆり上げている。
はそれを微笑ましく眺める。
まるで、妹でも出来たかのように。
「あ…」
ばらばらばらっ。
女の子の指先がお手玉を突いた。
その指先が縫い目を抉って中身が飛び出してしまった。
女の子は吃驚した顔をする。
「あ〜、やっちゃったね」
は散らばった小豆を集める。
「大丈夫、そんな顔しないで」
口を真一文字に結んで、泣きそうな顔をする女の子の頭を優しく撫でてやる。
「縫ってあげるから、早く集めて集めて」
笑いかけると、そのままの顔で頷いて小さな手を動かし始める。
何て可愛いんだろう。
こんな可愛い子の相手を、誰もしてあげないなんて…。
可哀相に思いながら、荷物から裁縫道具を取り出す。
「すぐに治るからね」
そう言って縫い始める。
解けてしまったところの他にも、解れそうなところも縫っていく。
女の子は、の手元をじっと見つめている。
そう見られると、少しばかり緊張する。
「あの、さん? ちょっといいですか?」
糸きり鋏を手に取ったとき、廊下から声がした。
「はい?」
返事をしたものの、部屋の中には入ってこない。
部屋から出て来いという事だろうか。
「ちょっと待っててね」
女の子の頭を軽く撫でてから、部屋を出る。
「何でしょうか?」
を呼んだのは、先ほど彩の隣で赤子を抱えていた女中だった。
「あの、旦那様が薬はまだかと気にしていまして」
「それなら、薬売りさんに直接」
「それが、言い難いのですが、少し気味が悪くて…」
気まずそうにする女中に、は困ったように笑う。
「そうですよね」
薬売りが綺麗だから近付く者が居れば、気味が悪くて近づけないとう者も居るということだ。
「じゃあ、聞いてきます。後でお伝えしますね」
「すみません。では私は土間の方に居ますので」
「はい」
女中が去ると、は一度部屋に戻った。
「ごめんね、今からちょっと…」
障子を開けながら言いかけたが、部屋の中にあの子はいなかった。
縫いかけのお手玉だけが置き去りにされている。
「あれ…何処行っちゃったんだろう…」
狭い部屋を見渡しても、女の子の気配はない。
一応押し入れも開けてみたが、やはり居ない。
ふと、縁側の障子がずれている事に気付いた。
あちらから出て行ってしまったのかもしれない。
「…」
は、お手玉を拾い上げて苦笑した。
-NEXT-
漸く一番気に入っている話に入りました。
が
まだ始まってもいない感じですね…
2010/3/22