用心深い…。
薬売りの部屋の前。
廊下に天秤が置いてある。
お仕事中の天秤は、が居ても微動だにしない。
「薬売りさん、です。いいですか?」
「どうぞ」
障子を開けると、酷い散らかりようだった。
更に、少しばかり臭う。
「…何事ですか?」
薬売りの周りにはいくつもの包みが広げてある。
小包ではない。材料そのものが入っている袋だ。
その行李の何処に、そんなに沢山入っているのか不思議なほどに。
「少々、材料が多いもんで」
「はぁ」
「産後には、きゅう帰調血飲がいいかと」
「はぁ」
「十三種類ほど、生薬が必要で…」
独り言のように呟きながら、順番に量を見ていく。
「それで、あとどの位かかりますか?」
部屋に入れないまま聞く。
「…?」
「女中さんに聞かれたんです。薬売りさんが怪し過ぎて近寄れないからって」
クスリと笑う。
「それは、それは…」
薬売りも、口角を上げる。
「あとはこれを煮出して、小半刻、といったところですよ」
「煮出すなら土間に預けてきますか? 女中さん、土間に居るそうなので」
「そう、ですね」
薬売りは、生薬を合わせた包みをに差し出す。
はそれを受け取ると、チラリと薬売りを覗き見た。
「何ですか」
「えっと…」
は躊躇うように言葉を濁らせる。
「どうか、したんで」
「あの、ここにはモノノ怪がいるんですか?」
この店の入り口で、薬売りは何かを感じていた。
廊下には天秤。
薬売りがモノノ怪の気配を感じていることは確かだ。
の問いに、薬売りは目を細める。
「今日は、聞こえないんで?」
「はい。…なのでお役に立てそうにないです」
不安そうに笑う。
「そういう時も、ありますよ」
何だかんだ言って、やっぱり優しい人だ。
雲の途切れない夜空を、は眺めていた。
梅雨独特の鬱陶しさは、風呂を上がってもなくならない。
それなのに、肌寒さを感じるのは、ここにモノノ怪がいるからだろうか。
モノノ怪がいるのなら、何故声が聞こえないのだろうか。
もしかしたら、聞こえなくなってしまったのかもしれない。
ふと、不安が過ぎる。
モノノ怪が何も言っていないのではなくて、本当は何か言っているのに聞こえていないのかもしれない。
現に薬売りは、気配を感じている。
「そんなこと…」
不安を打ち消そうとするが、その声は弱い。
「だって、この店に入る前は聞こえてた」
薄っすらと。
けれど…。
本当はもっと大きな声だったのかもしれない。
徐々に、聞こえなくなっていたのかもしれない。
「そんなことない」
目を瞑って振り払う。
思えば、何故この力が自分にあるのか分からない。
物心ついた頃から、自然と聞こえていた。
それが無くなるなんて、考えたことも無い。
「違う、無くなってなんかない!」
両手に力が入る。
「おねえちゃん?」
小さな、怯えたような声がした。
見れば、庭の暗闇からあの子が姿を現した。
「こんな時間にどうしたの?」
宵も五つを回る。子どもはとうに寝ていてもおかしくない時間だ。
目を丸くするの隣に、女の子は腰を掛ける。
「だれも、一緒にいてくれないの」
しょんぼりと俯くその子が、不憫でならない。
この家には両親も居て、住み込みの奉公人だって何人も居るのに、誰もこの子の傍に居てくれないというのだ。
「そっか。じゃあ今夜は私が一緒に寝てあげる」
が微笑むと、女の子は嬉しそうに笑った。
本当に、可愛らしい。
「あ、そうだ。お手玉、縫っておいたよ」
は立ち上がると、部屋に入って鏡台の上に置いてあったお手玉を差し出す。
ててて、と駆け寄ってくる女の子は無邪気な笑顔をしていて、は思わず髪を撫でていた。
その手に、女の子はそっと自分の手を重ねてきた。
「どうしたの?」
「…いい子?」
上目遣いでを見るその目が、とても綺麗だった。
「うん、いい子だよ」
頬を染めて喜んでいる。
余程、寂しかったのだろうか。
何故だか切なくなって、はその小さな身体を抱き締めた。
「さ、もう遅いから寝ようね」
ひとしきり頭を撫でてから、は女の子を放した。
布団に入ると、いくらも経たないうちに女の子は寝てしまった。
その寝顔を眺めているうちに、も眠りに落ちた。
薬売りは、一人廊下を歩いていた。
床に就く前に一度、彩の様子を聞いておきたかった。
しかし、家の者が見当たらず、仕方なく取り次ぎなしに彩の部屋の近くまで来た。
「…じゃない」
部屋の手前で、薬売りは足を止める。
部屋の中から、彩の声が聞こえる。
声を低くしてはいるが、この距離ならば聞こえる。
「いやいや、何処をどう見ても俺には似ていないよ」
「でも…」
この声、若松屋の声ではない。
どちらかと言えば…。
「でも、禄郎? この目鼻立ち…」
そう、番頭の禄郎。
薬売りは鋭い視線で部屋の方を睨む。
具合が悪いという割りに、しっかりとした口調だ。
「思い過ごしだ、しっかりしろ」
「もし、もしもよ、大きくなったこの子が旦那様に似ていないなんてことになったら…」
「似ていない親子なんて五万といるだろうに」
「でも…」
「彩」
薬売りは口角を上げつつ、その場を去った。
どうやらここには、モノノ怪のほかにも、事情があるようだ。
暗い廊下を歩いていると、何か気配を感じた。
振り返るが、真っ暗な廊下が続いているだけ。
「何でしょうね」
ポツリと呟いた声は、闇に溶ける。
モノノ怪の気配はするものの、これと言って変わったことは無い。
あると言えば多分、あの彩という女の体調が悪いということくらいだろう。
それも、怪しいものだが。
薬売りは自分の部屋へ帰るために、に宛てられた部屋の前を通る。
はもう、床に就いているのだろう。
灯りも消え、起きている気配もなかった。
「おっと、忘れていました」
そういえば、の部屋に札を貼っていなかった。
もちろん、天秤を渡すことも。
静かに札を取り出すと、の部屋の障子に一枚、貼り付ける。
「…?」
貼った瞬間、中の気配が変わったような気がした。
「気のせい、か?」
僅かに首を傾げながら、薬売りは部屋に戻った。
-NEXT-
2010/3/28