「…ん…」
遠くの方で、人が慌しく行き交う音がする。
大店の朝は早い。
はゆっくりと目を開け、視線を巡らせる。
「あれ…?」
昨日、一緒に床に就いたはずのあの子がいない。
起き上がって、女の子が寝ていた所に手を当てる。
少しも温かくない。相当前に出て行ったらしい。
枕元に置いていたお手玉もなくなっている。
「…もう、起こしてくれてもいいのに」
起きるのに遅い時間ではないが、寝坊したような気分になる。
は身支度をすると部屋を出た。
「あれ、お札が」
寝る前にはなかった薬売りの札が、障子に貼り付いている。
そういえば天秤も借りていなかった。
ここにはモノノ怪が居るというのに、迂闊だった。
「さん」
声がした方を振り返れば、薬売りが立っていた。
完璧に身支度を整えている。
「おはようございます、薬売りさん」
いつもの事ながら早いですね、とは言わないでおく。
「おはよう、ございます。朝餉は、俺の部屋に、運んでくれるらしいですよ」
「はい、じゃあお邪魔します」
薬売りの後について部屋に入る。
昨日の散らかりようが嘘のように、綺麗に片付いている。
部屋の隅の方に置いてある行李を一瞥するも、やはりあの中に全てが入っているとは思えない。
もしかしたら四次元ポ…(自主規制)。
「あの、お札、ありがとうございました」
「忘れていたのは、俺ですから」
向かい合って座る。
「いえ、私もです。声が聞こえないから気が緩んでいたんです。それに、ここの娘さんと遊んだりしてて…」
「娘さん?」
「はい、三つか四つくらいの」
薬売りは見たことがないのだろう、首を傾げる。
「失礼します。朝餉をお持ちしました」
廊下から声がする。
薬売りがどうぞ、と声を掛けると、障子が開いて女中が入ってくる。
初めて見る女中だ。
二人の膝の前に膳を揃えていき、お櫃の蓋を開ける。
「あの、聞きたい事があるんですけど」
は女中に話しかける。
「何でございますか?」
手を止めることなく、女中はをちらりと見て微笑む。
「こちらに娘さん、いらっしゃいますよね?」
「はい、先日お生まれになった幸様が」
「あの、もう一人三つか四つの…」
いくら生まれたばかりの子が居るからといって、先に生まれている娘のことを言わないとは。
「いえ、お一人だけです」
女中は薬売りの膳に茶碗を差し出す。
「え…?」
では、自分が見て、遊んで、一緒に寝たのは誰だというのか。
「そういえば、最近店の者の中に子どもの声を聞いたり影を見たというものが居りますが、私どもは座敷童子でも居るんじゃないかって話をしているんですけど、お客さんもそれを見たんではないですか?」
「…座敷童子…」
が不安げに薬売りを見る。
薬売りは黙って何か考え込んでいる。
「でも、座敷童子といえば、その家に幸福を齎す妖怪と聞きますから、大歓迎ですよ」
女中はにも茶碗を渡して、丁寧に頭を下げて部屋を出て行った。
「座敷童子だなんて…そんなの嘘ですよね」
「声は、聞こえたんで」
「聞こえました、ちゃんと耳から」
「耳から?」
「この世ならざるものの声は、直接頭に響いてくるんです。でもあの子の声はちゃんと耳から聞こえました」
薬売りは、を見つめる。
「…だから、この世ならざるものではないんです…」
あんなに可愛くて、あんなに寂しがり屋で。
「さん。モノノ怪でないのなら、斬る事はありませんよ」
そうだ。
モノノ怪にならなければ、例えこの世ならざるものであっても、薬売りに斬られる事はない。
「…はい」
少しだけ安堵する。
けれど疑問は残るし、心は晴れない。
何故あの子は自分の前に姿を現したのだろうか。
朝餉を終えて、自分の部屋の前まで戻ってきたは、障子に貼られた札を見つめていた。
モノノ怪から守ってくれるもの。
木枠に貼られたそれを、指先でゆっくり撫でる。
これがあったから、あの子はこの部屋にいられなくなってしまったのかもしれない。
家族や店のものに存在を知られることなく、寂しい思いをしていたのに。
は、札の隅に人差し指の爪を立てる。
思いの外簡単に、爪が札と木枠の間に入り込む。
「ごめんなさい、薬売りさん」
そう言って、親指と人差し指でつまんで、札を剥がした。
音もなく、流れるように札は外れて、模様を失った。
折りたたんで、懐に仕舞う。
「おねえちゃん」
その途端、廊下の先から声がした。
ビクリと肩を震わせたは、動けずにいる。
ぎこちなく首を動かすと、あの女の子が立っていた。
と一瞬視線を合わせると、途端に女の子は家の奥に向かって歩き出した。
「あ…ちょっと」
追いかけようかどうか迷った挙句、は足を踏み出した。
その奥は、家人の住居ではないのか。
不安が頭を過ぎるが、放っておくことは出来ない。
誰とも遭わないことを祈って、は女の子を追った。
何回か突き当たりを曲がって、いくつもの部屋を通り過ぎる。
一体どれほどの広さなのか、見当も付かない。
元の部屋に戻れるだろうかと思う。
何度目かの突き当たりを曲がったところに、女の子が立っていた。
他よりも、狭そうな部屋の前。
が付いて来たことを確かめてから、障子に手を掛けて中に入っていく。
「あ、待って…」
慌てて後を追う。
中に入って、は目を疑う。
仏間…。
四畳半ほどの部屋に、仏壇。
「どうして…ここに?」
女の子に問いかける声は、知らずに掠れる。
“あれ…”
「え?」
口は動いているのに、音が出ていないように思う。
女の子が指差すのは、仏壇に置かれた位牌。
“マリなんだって”
「マリ…ちゃん?」
“あたし?”
絶句する。
ここに、こうやって存在しているのに、自分の位牌を見る。
この子は、自分が死んでしまっていると、分かっているのだろうか。
「マリちゃんって言うんだね。あのね…これはね」
“だいじょうぶ”
大きな目をぱっちりと開いて、を見上げるマリ。
“わかってるの、ぜんぶ”
「全部?」
コクリと頷く。
“マリが死ななくちゃいけなかった、りゆう”
「な…」
何を言っているんだろう。
は身体が冷えていく錯覚に陥る。
死ななくちゃいけなかった?
死ななくちゃいけない人間なんて、いる訳がない。
「…っ」
声を出そうとして、唇が震えるのが分かる。
それを抑えようとして、身体に力が入る。
「マリちゃん、お姉ちゃんと一緒に行こう? マリちゃんのこと、一緒に考えてくれる人が居るから…」
が手を差し出すと、マリはふるふると頭を横に振る。
切りそろえられた髪が、左右に靡く。
“イヤ”
「マリちゃん」
“わかってるの、ぜんぶ”
さっきと同じ科白。
“何をしなきゃいけないのか”
そう言うと、マリは部屋から飛び出した。
「マリちゃん!」
すぐに後を追ったけれど、左右に伸びる廊下を見ても、少し先の角を覗いても、マリの姿はなかった。
どうしよう…。
全身が震えた。
あの子は、モノノ怪になる。
-NEXT-
2010/4/4