天気雨の夜

座敷童子〜四の幕〜










「薬売りさん!!」





 廊下を走ってきた勢いそのままに、は薬売りの部屋の障子を思い切り開け放った。
「あれ…」
 しかし、薬売りは不在。
 行李もなくなっている。
 空っぽの部屋が、の不安を掻き立てる。
「薬屋さんなら、彩様のところに行かれましたよ」
 通りかかった女中に言われ、は我に返る。
「え…?」
「彩様の様子を見に行かれました」
 の只ならぬ様子に、女中は怪訝そうな顔をする。
「そうですか…ありがとうございます」
 女中の目を気にして、は努めて冷静に、けれど足早に彩の部屋に向かった。
 部屋までの道のりがやけに長く感じて、を焦らせる。


 早く、知らせなければいけない。

 あの子は危険だと。



 漸く部屋の前まで来て、はたと立ち止まる。



 早く知らせなければいけない。
 でも…



 何て、言えばいい?

 あの子は危険だと?

 危険だから斬れと?

 モノノ怪になるから、斬れと?



 マリにも、“一緒に考えてくれる人が居るから”と言った。

 けれど、薬売りは考えてくれるだろうか。

 モノノ怪ならば斬り、そうでないならそのまま…。

 マリはきっと、既にモノノ怪なのだ。





「そこに居るのは誰だ?」


 部屋の中から声がして、ビクリと肩を震わせる。
 若松屋の声だ。
「あ、あの…こちらに薬売りさんがいると聞いて」
 震える声が、憎らしい。
「あぁ、連れのさんといいましたか。お入りください」
 先ほどの声とは打って変わって、穏やかな声がする。
 は膝を付いて丁寧に障子を開ける。
 その両手も震える。
 律儀にお辞儀をしてから部屋に入ると、また膝を付いて障子を閉める。
「貴女も客人なんですから、そんなに気を遣わなくてもいいのですよ」
 昨日会った時とは大分様子が違う。
 何処か穏やかな空気だ。
 はそう感じながら、障子のすぐ近くに座っている薬売りの隣に腰を下ろす。
 若松屋は機嫌の良さそうな笑みを浮かべて、布団の上に起き上がり子を抱えている彩の傍に座っている。
「彩様のお加減は?」
 当たり障りの無いことを聞いてみる。
 彩を見ると、こちらも昨日より顔色がいい。
「昨日より大分いいようです。これも薬売りさんの下さった薬のお陰です」
 微笑む彩。子をあやすのに、ゆっくり身体を前後させる。

 それは違うと、には分かった。
 彩の帯に、あの札が付いている。
 掛け布団に隠れて見え辛いが、確かに薬売りの札だ。
 何か理由を付けて渡したのだろう。
 彩の体調がいいのは、その札のお陰。ということは、体調が悪かったのはモノノ怪のせい。
「そうですか、良かった…」
 の笑顔は完全な作り笑いだったけれど、誰も気付くことは無かった。


「そういえば、若松屋さん」


 薬売りが唐突に口を開いた。
「なんでしょう?」
「面白い話を、聞いたんですがね」
「面白い話ですか?」
「座敷童子が、出るそうで」
「―っ!」
 薬売りの一言に、夫婦は硬直した。
 けれど若松屋はすぐにその硬直を解き、やんわりと答えた。
「奉公人たちの間でそんな噂もあるようですね。しかし、座敷童子はその家に繁栄を齎すもの。ありがたい話ですよ」
「そう、ですね」
 動じることの無い主に、は複雑な思いをする。
 その座敷童子が、ここの娘だとも知らずに。
「…」
 は妙な息苦しさを感じる。
 憤っているのだと、自覚するのに時間はかからなかった。
 あの子はアヤカシとしての座敷童子ではなく、モノノ怪としての座敷童子になってしまったのに。


さん」


 薬売りに呼ばれても、返事が出来ない。
 僅かに顔だけを薬売りの方に向ける。
 すると薬売りは何を思ったのか手を伸ばして、の頬に触れた。
 そして自分の方に更に顔を向けさせる。
「顔色が、悪いですね」
「くす…」
「それはいけない。長旅の疲れが出たのかもしれない。よくなるまで部屋はお貸ししますぞ」
 若松屋が声を上げる。
「ありがたく…。では、ここで失礼、します」
 薬売りはそう言って丁寧に頭を下げると、を連れて部屋を出た。





 彩の部屋を離れて、薬売りはの手を引いて歩き続けた。
 は薬売りの背中を眺めながら、引かれるままについていく。
 廊下が軋みを訴えるだけで、聞こえるのは二人の足音だけ。
 浅い呼吸が、薬売りに聞こえないか、少し不安になる。

 辿り付いたのは与えられている部屋。
 部屋に入ると、薬売りは手を離すこともせずに振り返った。


「何が、あったんで」


 薬売りは、を正面から見つめる。
 それを見上げると、は泣きそうな顔をする。
 それでは痕が残るだろうというくらいに、眉間に皺が寄っている。
「…っ」
 言いたいことは沢山あるはずなのに、声にならない。
 必死に声をだそうとしても、身体も唇も戦慄くばかりで思うようにならない。




 不意に、薬売りがの髪を撫でた。


 そしてそのまま、の頭を引き寄せて自分の胸に押し付ける。


「大丈夫、ですよ」


 小さく、呟いた。




 何かの呪文のように、身体の震えが治まっていく。
 さっきまでの息苦しさも、消えてしまった。


 は身体の力を抜いて、瞳を閉じた。


 深く息を吸うと、薬草の匂いか香の匂いか、鼻腔を擽るのは不思議な香り。
 それがとても心地よかった。








「…あの子、モノノ怪です」
 声は掠れていた。
「何かします」
 目を開けると、薬売りから離れる。
 が動くのと同時に、薬売りの手も離れる。
「もう、していましたよ」
「彩様ですよね」
「少し、調べなければ、いけませんね」
 そう言うと、薬売りは部屋を出ようとする。


「薬売りさん」


 が呼ぶと、薬売りは僅かに振り返った。
 言おうとして、けれど、何故か憚られた。
「…すみません、何でもありません」










 あの子を、斬るんですか。







 そう、聞くことはできなかった。




















 土間へ行くと、三人の女中が片付けがてら世間話をしているところだった。
「あら、薬屋さんじゃないの」
 喜々とした顔で薬売りを迎える女中たち。
 一部、薬売りを気味悪がった女中も居たが、ここに居る三人は薬売りを気に入っているようだ。
「聞きたいことが、あるんですがね」
 薬売りは行李を下ろして座り込む。もその隣に座る。
「何なりと聞いてくださいな」
「こちらに、四つくらいの娘さんは、いませんでしたか」
「あぁ、それなら居ましたよ」
 洗い物をしながら、一人の女中が言う。
「え、でも朝尋ねた女中さんは居ないって」
「あの人はまだ入って二ヶ月だもの。知りませんよ」
 別な女は壺を片付けている。
「その子は亡くなりましたから。もう十月経ちます」
 寂しげな顔で膳を拭く女中。
「お手玉と鞠つきが大好きな、活発な子でした」
「私達も手が空いた時には一緒に遊んだものです」
 懐かしそうに微笑む女中たち。
「その子は、何故、亡くなったんで」
 薬売りの問いに、女中たちの笑みは翳る。
「二階の廊下で遊んでいて、階段から落ちたんですよ」
 の顔が歪む。

「でも、あれは…ねぇ?」

 洗い物の手を止めて、他の二人に同意を求める。
「まぁ、ねぇ…」
「何、ですか」
「彩様が怪しいって、一度噂になったんですよ。ちょうど、二階に居たのが彩様だけだったから」
 漸く聞き取れるくらいの声で、女中はそう言った。
「どうしてですか? ご自分のお子でしょう?」
 は表情を強張らせた。
「違いますよ。…病死なさった前妻と兵衛門様のお子です」





 ガタガタガタガタガタッ、バタンッ!!





「何?」
 何処かで大きな音がした。
 や女中たちが驚いている中、薬売りは立ち上がった。


「きゃあぁぁ!」


 続いて、女の悲鳴。
 薬売りは声のした方へと向かった。もそれに続く。


「禄郎さん!?」


 奉公人らしき男が、階段の下で倒れている禄郎に声を掛けている。
 そのすぐ後ろで、女中が青ざめた顔で突っ立っている。
 薬売りもも、禄郎の体位の酷さに絶句する。
 頭は半回転、右肩は背中の方を向き、腕は良く分からない曲がり方をして、両足は歪な形。
 は目を背けて、後から来た女中たちに見てはいけないと首を振る。
「何が、あったんで」
 薬売りは男に声を掛ける。
「二階から階段を転げ落ちてきたんでさぁ」
「!!」
 その言葉に、誰もが目を見開く。


「何の騒ぎだ?」
 そこへ若松屋が姿を現す。
「禄郎!?」
 愕然とする若松屋。禄郎に駆け寄ると、大きく揺する。
「旦那様…」
 男が若松屋の手を留める。
「禄郎…!」


“ふふっ”


「…え…?」
 は、笑い声を聞いた。
 階段の上からだった。
 狼狽えながらも、薬売りや若松屋の背中を通り過ぎて階段を駆け上った。
 一瞬、皆の注意がに向くも、すぐにそれは禄郎に戻る。
 薬売りだけが、ゆっくりとその後を追った。


 が二階の廊下を駆けていくと、突き当たりにマリが立っていた。
 無表情で、を見ている。
「どうして…? どうしてこんな事…」
 どうしてモノノ怪なんかに。
 の問いに、マリは答えない。
 その代わり、笑ってみせた。


 残酷なまでに愛らしい笑みで。


 その笑顔に、は背筋が凍るような感覚を覚えた。
 こんなに小さな子に、こんな戦慄を感じることが、今まであっただろうか。
「やめて…」
 マリは踵を返す。
「やめてよ」
 マリの姿が、消える。
「マリちゃん!!」
 の声は、届かない。
 立ち尽くすの視界に、青が入る。
「薬売りさん…」




 届かなかった。
 何も出来なかった。




「モノノ怪は、斬らねばならない」





「…分かっています…」














-NEXT-














2010/4/11