「薬売りさん!!」
廊下を走ってきた勢いそのままに、は薬売りの部屋の障子を思い切り開け放った。
「あれ…」
しかし、薬売りは不在。
行李もなくなっている。
空っぽの部屋が、の不安を掻き立てる。
「薬屋さんなら、彩様のところに行かれましたよ」
通りかかった女中に言われ、は我に返る。
「え…?」
「彩様の様子を見に行かれました」
の只ならぬ様子に、女中は怪訝そうな顔をする。
「そうですか…ありがとうございます」
女中の目を気にして、は努めて冷静に、けれど足早に彩の部屋に向かった。
部屋までの道のりがやけに長く感じて、を焦らせる。
早く、知らせなければいけない。
あの子は危険だと。
漸く部屋の前まで来て、はたと立ち止まる。
早く知らせなければいけない。
でも…
何て、言えばいい?
あの子は危険だと?
危険だから斬れと?
モノノ怪になるから、斬れと?
マリにも、“一緒に考えてくれる人が居るから”と言った。
けれど、薬売りは考えてくれるだろうか。
モノノ怪ならば斬り、そうでないならそのまま…。
マリはきっと、既にモノノ怪なのだ。
「そこに居るのは誰だ?」
部屋の中から声がして、ビクリと肩を震わせる。
若松屋の声だ。
「あ、あの…こちらに薬売りさんがいると聞いて」
震える声が、憎らしい。
「あぁ、連れのさんといいましたか。お入りください」
先ほどの声とは打って変わって、穏やかな声がする。
は膝を付いて丁寧に障子を開ける。
その両手も震える。
律儀にお辞儀をしてから部屋に入ると、また膝を付いて障子を閉める。
「貴女も客人なんですから、そんなに気を遣わなくてもいいのですよ」
昨日会った時とは大分様子が違う。
何処か穏やかな空気だ。
はそう感じながら、障子のすぐ近くに座っている薬売りの隣に腰を下ろす。
若松屋は機嫌の良さそうな笑みを浮かべて、布団の上に起き上がり子を抱えている彩の傍に座っている。
「彩様のお加減は?」
当たり障りの無いことを聞いてみる。
彩を見ると、こちらも昨日より顔色がいい。
「昨日より大分いいようです。これも薬売りさんの下さった薬のお陰です」
微笑む彩。子をあやすのに、ゆっくり身体を前後させる。
それは違うと、には分かった。
彩の帯に、あの札が付いている。
掛け布団に隠れて見え辛いが、確かに薬売りの札だ。
何か理由を付けて渡したのだろう。
彩の体調がいいのは、その札のお陰。ということは、体調が悪かったのはモノノ怪のせい。
「そうですか、良かった…」
の笑顔は完全な作り笑いだったけれど、誰も気付くことは無かった。
「そういえば、若松屋さん」
薬売りが唐突に口を開いた。
「なんでしょう?」
「面白い話を、聞いたんですがね」
「面白い話ですか?」
「座敷童子が、出るそうで」
「―っ!」
薬売りの一言に、夫婦は硬直した。
けれど若松屋はすぐにその硬直を解き、やんわりと答えた。
「奉公人たちの間でそんな噂もあるようですね。しかし、座敷童子はその家に繁栄を齎すもの。ありがたい話ですよ」
「そう、ですね」
動じることの無い主に、は複雑な思いをする。
その座敷童子が、ここの娘だとも知らずに。
「…」
は妙な息苦しさを感じる。
憤っているのだと、自覚するのに時間はかからなかった。
あの子はアヤカシとしての座敷童子ではなく、モノノ怪としての座敷童子になってしまったのに。
「さん」
薬売りに呼ばれても、返事が出来ない。
僅かに顔だけを薬売りの方に向ける。
すると薬売りは何を思ったのか手を伸ばして、の頬に触れた。
そして自分の方に更に顔を向けさせる。
「顔色が、悪いですね」
「くす…」
「それはいけない。長旅の疲れが出たのかもしれない。よくなるまで部屋はお貸ししますぞ」
若松屋が声を上げる。
「ありがたく…。では、ここで失礼、します」
薬売りはそう言って丁寧に頭を下げると、を連れて部屋を出た。
彩の部屋を離れて、薬売りはの手を引いて歩き続けた。
は薬売りの背中を眺めながら、引かれるままについていく。
廊下が軋みを訴えるだけで、聞こえるのは二人の足音だけ。
浅い呼吸が、薬売りに聞こえないか、少し不安になる。
辿り付いたのは与えられている部屋。
部屋に入ると、薬売りは手を離すこともせずに振り返った。
「何が、あったんで」
薬売りは、を正面から見つめる。
それを見上げると、は泣きそうな顔をする。
それでは痕が残るだろうというくらいに、眉間に皺が寄っている。
「…っ」
言いたいことは沢山あるはずなのに、声にならない。
必死に声をだそうとしても、身体も唇も戦慄くばかりで思うようにならない。
不意に、薬売りがの髪を撫でた。
そしてそのまま、の頭を引き寄せて自分の胸に押し付ける。
「大丈夫、ですよ」
小さく、呟いた。
何かの呪文のように、身体の震えが治まっていく。
さっきまでの息苦しさも、消えてしまった。
は身体の力を抜いて、瞳を閉じた。
深く息を吸うと、薬草の匂いか香の匂いか、鼻腔を擽るのは不思議な香り。
それがとても心地よかった。
「…あの子、モノノ怪です」
声は掠れていた。
「何かします」
目を開けると、薬売りから離れる。
が動くのと同時に、薬売りの手も離れる。
「もう、していましたよ」
「彩様ですよね」
「少し、調べなければ、いけませんね」
そう言うと、薬売りは部屋を出ようとする。
「薬売りさん」
が呼ぶと、薬売りは僅かに振り返った。
言おうとして、けれど、何故か憚られた。
「…すみません、何でもありません」
あの子を、斬るんですか。
そう、聞くことはできなかった。
土間へ行くと、三人の女中が片付けがてら世間話をしているところだった。
「あら、薬屋さんじゃないの」
喜々とした顔で薬売りを迎える女中たち。
一部、薬売りを気味悪がった女中も居たが、ここに居る三人は薬売りを気に入っているようだ。
「聞きたいことが、あるんですがね」
薬売りは行李を下ろして座り込む。もその隣に座る。
「何なりと聞いてくださいな」
「こちらに、四つくらいの娘さんは、いませんでしたか」
「あぁ、それなら居ましたよ」
洗い物をしながら、一人の女中が言う。
「え、でも朝尋ねた女中さんは居ないって」
「あの人はまだ入って二ヶ月だもの。知りませんよ」
別な女は壺を片付けている。
「その子は亡くなりましたから。もう十月経ちます」
寂しげな顔で膳を拭く女中。
「お手玉と鞠つきが大好きな、活発な子でした」
「私達も手が空いた時には一緒に遊んだものです」
懐かしそうに微笑む女中たち。
「その子は、何故、亡くなったんで」
薬売りの問いに、女中たちの笑みは翳る。
「二階の廊下で遊んでいて、階段から落ちたんですよ」
の顔が歪む。
「でも、あれは…ねぇ?」
洗い物の手を止めて、他の二人に同意を求める。
「まぁ、ねぇ…」
「何、ですか」
「彩様が怪しいって、一度噂になったんですよ。ちょうど、二階に居たのが彩様だけだったから」
漸く聞き取れるくらいの声で、女中はそう言った。
「どうしてですか? ご自分のお子でしょう?」
は表情を強張らせた。
「違いますよ。…病死なさった前妻と兵衛門様のお子です」
ガタガタガタガタガタッ、バタンッ!!
「何?」
何処かで大きな音がした。
や女中たちが驚いている中、薬売りは立ち上がった。
「きゃあぁぁ!」
続いて、女の悲鳴。
薬売りは声のした方へと向かった。もそれに続く。
「禄郎さん!?」
奉公人らしき男が、階段の下で倒れている禄郎に声を掛けている。
そのすぐ後ろで、女中が青ざめた顔で突っ立っている。
薬売りもも、禄郎の体位の酷さに絶句する。
頭は半回転、右肩は背中の方を向き、腕は良く分からない曲がり方をして、両足は歪な形。
は目を背けて、後から来た女中たちに見てはいけないと首を振る。
「何が、あったんで」
薬売りは男に声を掛ける。
「二階から階段を転げ落ちてきたんでさぁ」
「!!」
その言葉に、誰もが目を見開く。
「何の騒ぎだ?」
そこへ若松屋が姿を現す。
「禄郎!?」
愕然とする若松屋。禄郎に駆け寄ると、大きく揺する。
「旦那様…」
男が若松屋の手を留める。
「禄郎…!」
“ふふっ”
「…え…?」
は、笑い声を聞いた。
階段の上からだった。
狼狽えながらも、薬売りや若松屋の背中を通り過ぎて階段を駆け上った。
一瞬、皆の注意がに向くも、すぐにそれは禄郎に戻る。
薬売りだけが、ゆっくりとその後を追った。
が二階の廊下を駆けていくと、突き当たりにマリが立っていた。
無表情で、を見ている。
「どうして…? どうしてこんな事…」
どうしてモノノ怪なんかに。
の問いに、マリは答えない。
その代わり、笑ってみせた。
残酷なまでに愛らしい笑みで。
その笑顔に、は背筋が凍るような感覚を覚えた。
こんなに小さな子に、こんな戦慄を感じることが、今まであっただろうか。
「やめて…」
マリは踵を返す。
「やめてよ」
マリの姿が、消える。
「マリちゃん!!」
の声は、届かない。
立ち尽くすの視界に、青が入る。
「薬売りさん…」
届かなかった。
何も出来なかった。
「モノノ怪は、斬らねばならない」
「…分かっています…」
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2010/4/11