若松屋を訪ねると、彩の部屋にいた。
薬売りは部屋に貼ってあった札を、全て外してから部屋に入った。
「薬売りさん、どうにかならないか」
見れば彩が酷く怯えている。
「禄郎が死んだと聞いて、彩が酷く混乱しているんだ…」
若松屋本人も酷く狼狽えている。
「“形”、“真”、“理”が揃わなければ、どうにかすることは、出来ません」
「何ですか、それは…」
「ここには、モノノ怪が、いるんですよ」
「モノノ怪?」
「モノノ怪の形を為すのは、人の因果と縁。人の因果が廻って、モノノ怪を為す」
薬売りは正座したまま二人を見据える。
「よって、皆々様の、“真”と“理”、お聞かせ願いたく候―」
声と共に、部屋の中の空気が変わった。
薬売りの隣に、同じように正座をする。
更にその隣に、マリが姿を現した。
札を取ったために、部屋の中に入ることが出来るのだ。
は、チラリとマリを見てすぐに目を背けた。
「…マリ…?」
若松屋は、死んだはずの自分の娘に気付く。
神々しいものでも見るかのように、ゆっくりと近付こうとする。
マリは首を振る。
「来ないで、と言ってます」
は若松屋たちには聞こえることのないマリの声を伝える。
「彩様に用があるそうです」
「彩?」
呼ばれて彩はビクリと震える。
次第に恐怖の色が濃くなっていく。
「ゆ、許して…」
彩が、震える声で言った。
青ざめた顔には、妙な汗が伝っている。
「彩、何を…?」
兵衛門が彩とマリを順に見、薬売りは鋭い目でその様子を窺う。
その間、はマリが発した言葉に、愕然とする。
「そんな…」
マリを敢えて見ないようにしていただったが、たまらずマリの方を向いた。
その瞬間、マリの身体から風が発せられた。
マリを中心としてつむじ風のように円を描く。
「きゃっ」
「さん!」
次第に強くなっていく風にの肩が触れ、その衝撃で体勢を崩す。
隣に居た薬売りがすかさずそれを受け止め、マリとの間に札を並べる。
薬売りの腕に倒れこんだの視界に、彩が映りこむ。
「薬売りさん、彩様を!」
の声で、薬売りは彩の周りに結界を張るべく手を掲げた。
彩の前に札が並んでいくのと同時に、“何か”が次々と衝突していく。
そのたびに大きな爆発音がする。
「きゃあぁ!!」
札が完全に並びきる前に、“何か”が彩の腕を掠めた。
見れば、袖が切り裂かれ、その下の腕が血に染まっている。
「あ、彩!」
若松屋は慌てて自分の妻を庇う。
「鎌鼬…」
薬売りは苦々しい顔で呟く。
結界が完成しても尚、マリの彩への攻撃は止まない。
結界の中で小さくなる夫婦。
「マリ、どうして…」
自分の娘に攻撃されて、若松屋は困惑する。彩は俯いたまま何の反応も見せなかった。
「…ふっ…」
不意に、彩が短く息を吐いた。
「くっ…、あはは」
「彩?」
「そんなになるまで遊んで欲しかったの? だったら父親もすぐに送ってあげればよかったわね、マリちゃん」
その言葉に、マリは目の色を変えた。
部屋中を突風が吹き荒れ、障子も畳も天井も、あらゆるものを吹き飛ばし、あらゆるものに傷を付けて行く。
「…お前…」
若松屋は己の妻に疑惑の眼差しを注ぐ。
「マリちゃんを殺したのは、彩様です」
結界の向こうから、が低い声で言った。その言葉で、若松屋は硬直する。
「…なるほど…」
薬売りは、全てを了解したかのように頷いた。
「番頭さんとは、随分前から、デキていたんですね」
「なに!?」
若松屋の顔からどんどん血の気が引いていく。
「そうよ! この店は私と禄郎のものになるはずだった!!」
鋭く風が唸る。
私達は、もう何年も前から関係があった。
「なぁ、うちの旦那の後妻に入らないか?」
「は? 何言ってるのよ」
「そうすれば、毎日会えるだろ」
「会えるって言ったって、店主の後妻に手は出せないでしょ?」
「何、形だけだ」
「どういうことよ」
「旦那はまだ、前妻が忘れられずにいる。商いのときはしっかりしてるが、他は腑抜けだ。それに…、俺はあの店を乗っ取るつもりだ」
「え?」
「旦那は、俺を良く出来た番頭だと思っている。虎視眈々と店主の座を狙っているとも知らずにな。良く働くのは店の内情を全て掴むためさ」
「店主はどうするのよ」
「娘ともども追い出す算段は付けてある」
禄郎にそんな話を持ちかけられた。
そして、前妻が亡くなって一年後、私は若松屋の後妻に入った。
禄郎の言うとおり、兵衛門は前妻のことをいつも心の中に住まわせていた。
その娘のことも大切にしていた。
禄郎が乗っ取るまでとはいえ、正直居心地が悪かった。
「かかさま、あそんで」
「煩いわね」
「かかさま、まりつきしたい」
「しないわよ」
「かかさま、おてだま」
「私はアンタの母親じゃないわよ」
「かかさま」
「違うって言ってるでしょう!」
“今日からこの人がお前のかかさまだよ”
そう言われたから、かかさまって思うことにしたの。
ほんとうのかかさまとはちがう人って、知ってる。
でも、ととさまがそう言ったから。
あたらしいかかさまは、マリとあそんでくれなかった。
“母親じゃない”って。
ととさまの前と、マリの前と、それから禄郎さんの前で、ぜんぶちがう人みたいだった。
だから聞いたの。
かかさまは、禄郎さんと仲良しなんだねって。
鬱陶しかった。
私を見つければ“遊んで”と纏わり付いてきて。第一、子どもは好きじゃない。
ただ、この店が禄郎と私のものになるまでの辛抱だと、無視を続けてきた。
だけど、あの一言。
禄郎とのことを知られたと思った。
こんな五つにも満たない子どもに、見透かされたような気がした。
いつ、そのことを兵衛門に知られるか、気が気じゃなかった。
だからあの日…。
「マリ、お外で鞠付きをしましょうか」
「ホント!?」
「さ、下りましょう」
階段の前まで来て、マリの肩を掴んで…
「かかさま?」
「邪魔なのよ」
ガタガタガタガタガタッ、バタンッ!!
今思えば、店を乗っ取るためというより、憎らしかったのだと思う。
後妻を取っておきながら、夫婦らしいことなんて殆んどなかった。
兵衛門は前妻を思って私を相手にすることなんて少なかった。それなのに娘は娘で、必死に私を“かかさま”と呼んでくる。
私は一体何のためにここにいるのかと思った。
だからさっさと事を進めたかった。
風は、止んでいた。
最後に風が渦巻いたところで彩が倒れていたが、それに気を留める者はいない。
薬売りの元を離れて、はマリを抱きしめていた。昨晩したように、頭を何度も撫でてやる。
「マリ…」
若松屋は涙を流しながら、マリに歩み寄る。
けれど行き着く前にガクリと両膝を折って、力なく項垂れる。
「すまない、マリ…」
気付いてやれなかった。
「若松屋さん、マリちゃんは自分が死んだ理由を教えたかったんじゃないんです」
はマリを包んでいた手を解き、マリの大きな瞳に溜まる涙を拭う。
“この店は、ととさまの”
の心に流れ込んでくるのは、マリの幼いながらも父親を思う気持ちだった。
マリの母親が死んで、ひと目を憚らずに泣いた父親。
マリ自身が死んだときも、同じように泣いた父親。
「マリちゃんは、若松屋さんとこのお店を守りたかったんです」
お父さんとお母さんと過ごした、大切な場所だから。
若松屋は、マリを掻き抱いた。
「マリ、マリ…!」
マリはふんわりと微笑むと、若松屋の手をすり抜けた。
そして薬売りの前に進み出る。
「マリちゃん…」
小さな背中に声を掛ける。
この子は、本当に全部分かっている。
「いいんですか」
薬売りの問いかけに、コクリと頷く。
「マリ?」
若松屋の声に、振り返ってもう一度微笑む。
「“真”と“理”によって、剣を、解き、放つ…!!」
マリが立っていた場所には藤色のお手玉が二つ、残った。
「離縁を申し渡すから、早々に実家に帰りなさい」
「…はい。ご面倒をおかけしました」
何処もかしこもボロボロになった部屋で、若松屋は彩にそう言った。
彩は額を畳に擦り付けるように、深々と頭を下げた。
「幸は、この店で引き取る故、心置きなく去りなさい」
例えば幸が、番頭と彩の子であっても。
「…はい…」
二人のやり取りを、薬売りとは黙って聞いていた。
一通り二人の話が終ると、不意に若松屋はお手玉を拾い上げた。
「持っていてくれませんか」
若松屋はにお手玉を一つ、差し出した。
「…いいんですか」
「貴女のお陰でマリの想いを知ることができました。それに、貴女にはとても懐いていたようですから」
優しい貴女に、母親を重ねていたのかもしれません、と加えて、哀しそうに微笑む。
はそれを受け取ると、俯いて足早に部屋を出て行ってしまった。
薬売りは何故だかそれを追わずには居られなかった。
廊下に出ると、壁に額を押し当てているがいた。その背中は震えている。
「大丈夫、ですか」
静かに問いかける。
「…大丈夫です」
明らかな涙声。
「嘘は、よくありませんね」
「…嘘じゃありません」
「さん」
「嘘じゃ…っ」
突然腕を引っ張られて、薬売りの方に向き直されてしまった。
の目には涙が溢れ、今にも零れ落ちそうなほど。
「何処が、大丈夫なんで」
目から涙が零れると同時に、は薬売りの胸に縋りついた。
「おっと…」
抑揚の無い声を出しながら、薬売りはそれを受け止める。
「ごめんなさい…、少しだけ」
そう言って、は泣きじゃくった。幼子のように声を上げて。
可愛い子だった。恥ずかしがり屋で、寂しがり屋の。
女将と番頭のことがなければ死なずに済んだし、座敷童子にならずに済んだ。
モノノ怪にならずに済んだ。
あんなに可愛い子が、モノノ怪になる必要なんてこれほどもなかった。
人間の身勝手な欲が、幼い命を奪った。
そして、全てを分かった上で、モノノ怪になった。
自分が居てはいけない存在だと分かっていて…。
それでも、父親を守りたかった。
誰かを守りたいと思う気持ちでも、モノノ怪に成り得る。
守りたいという想いに、雁字搦めにされて…。
香も、そうだった。
それが、哀しい。
薬売りは、自分にしがみついている細い身体を、両手でそっと包み込んだ。
そして、がマリにしてやったように、髪を撫でる。
何度も、何度も。
そうしているうちに、の泣く声が治まっていく。
「落ち着き、ましたか」
胸の辺りが微かに押されて、が頷いたと分かる。
「…ごめんなさい」
鼻声が返ってくる。
「酷い声、ですよ」
「煩いです」
泣いたせいで頭も耳も痛い。
「これじゃあ、顔も、見れたものじゃないですね、きっと」
「煩いです」
見なくても、いつもの笑みだと分かる声色。
何故だかとても、安心する。
「分かってるなら、もう少しだけこのままで…」
そうして今度は、静かに涙を流した。
その手には、藤色のお手玉がしっかりと握られていた。
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2010/4/18