三年前、姫が知り合いの町医者を訪ねたときの事だった。
その医者は鹿野真雪といって実に清々しい気概の持ち主で、誰一人として見捨てず、差別することなく病める者全てを診た。
姫はその医者に興味を持ち、何度か訪ねるうちにその診療所が実は困窮している事を知った。
貧しいものから治療代を取らず、薬代が嵩んでいく一方だったのだ。
姫は、その診療所にいくらかの寄付をした。
町の人々には幸せに暮らして欲しい。けれど、満足に病の治療が出来ないのは、上のものたちの怠慢だ、と。
自分では何も出来ないからと、治療代を差し出した。
冬新様は、あまり良い顔をしなかったけれど、図らずもそれが“深月の嫡女”以外で、姫の名が世の人の知る所のものになった瞬間だった。
診療所を訪ねて幾度目かのことだった。
姫と対面していた真雪のところに、まだ幼い子が三人駆け込んできた。
「先生〜、子犬が!」
オロオロとする子供たちの様子を見て、真雪は姫に頭を下げて診療所を出て行った。
姫はもちろんその後を追う。
俺達もそれに従う。
子供たちが向かったのは、町外れにある神社の裏の林。
その高い木の枝で、どういうわけか子犬が二匹うろうろしている。
「さっき、おっきな犬に追いかけられてて、あそこまでのぼっちゃったんだ」
「下りられなくなったみたいなの」
自分で上っておいて降りられないなんて、何処かの誰かもやりそうなことだ。
「…そうか、しかしなぁ」
真雪は子犬たちを見上げたまま、顎を擦っていた。
既に齢五十を越えた痩せぎすの医者に、あそこまで上れというのは酷な話だ。
「姫…」
「…そうね…、莢矢、大丈夫?」
「あの位ならば、幼い頃に何度も上りました」
兄貴は笑いながら幹の様子を確かめ始めた。
どうやら、兄貴は自分が登って助けるつもりらしい。
「兄貴」
「あぁ、大丈夫だ。悪いが、下で受け取ってくれるか」
「分かった」
兄貴が木を登っている間、俺は手拭を取り出して広げた。
そうして、子犬は無事に助けられた。
「誰かが飼ってやんなきゃ、また襲われるよ」
「でも、犬なんて連れて帰ったら、母ちゃんに叱られる…」
「うちだって…」
「可哀相だけど、このまま放すしかないよ」
勢いよく水を飲む子犬を眺めながら、子供たちがそんなやり取りをしていた。
「診療所で飼ってやると、言ってやりたいのは山々ですが」
真雪は、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「…」
姫は、居た堪れないような表情を浮かべていた。
きっと、自分が引き取りたいと思っているに違いない。
けれど、それが出来ない事はよく分かっている。
深月の屋敷には既に大きな犬がいる。
冬新様が、今は江戸に遊学しているご嫡男荘一朗様の為に連れて来た犬だ。
あの力強さには、屋敷の皆が手を焼いていて、これ以上犬を飼うことは難しいだろう。
どうしよう、という視線を、兄貴や俺に向けてくる姫。
その視線を受けて、兄貴と俺は目を合わせた。
言わずとも分かるさ。
そうするのが一番だったんだ。
「俺達が、引き取りましょう」
視線を姫に戻すと、兄貴はそう言った。
「え、でも…」
「本当っ!?」
姫の戸惑う声を遮って、子供たちが声を上げた。
きらきらした瞳で、俺達を見てくる。
「あぁ。ただし…」
兄貴はしゃがみ込んで子供達と視線を合わせると、優しく、けれど厳しい事を言った。
「今回だけだぞ。何度も迷い犬を引き取ってやることはできない」
「…」
「いくらそうしても、キリがないことは分かるな?」
「…うん…」
兄貴はしょんぼりとする子供たちの頭を、順に撫でた。
「その代わり、この二匹は責任を持って俺達が面倒を見る。たまにはここへ連れて来よう」
兄貴は本当に出来た人だ。
皆を納得させて、上手く纏めてしまう。
こういうことに、俺の出る幕っていうのは皆無だ。
子供たちは大喜びして跳ね回った。
さっきの気落ちは一体何処に行ったのかと思うほどだ。
それは姫も同じで、子供のように嬉しがっていた。
本当にいいのかと、何度も尋ねて流石に兄貴も参っていた。
けれど、それから深月の屋敷に犬を連れて行ったり、こっそりと屋敷を抜け出して姫が様子を見に来たりしていた。
姫が屋敷を抜け出すのは少々厄介だったけれど、それでも俺達は引き取って良かったと思っているのだ。
兄弟揃って、姫に対して大甘なんだ。
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2012/1/29